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昭和30年代の学芸大学を写真で振り返る~創業当時のマッターホーン・二葉、映画館…話でしか知らないあれこれが写真で甦る

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知らないけど懐かしい70年前の学芸大学

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今回はほとんどの方が目にしたことのないであろう学芸大学の姿をご紹介します。

以下、4点の写真を写真ごとに見ていくのですが、これらは昭和34年(1959年)10月頃に撮影された学芸大学の航空写真です。おそらくヘリコプターか何かに乗って、5分間くらいで撮っているはず。いずれもカメラマン・石川光陽氏が撮影し、昭和館デジタルアーカイブで公開されている写真です(詳細後述)。

1959年頃の記憶があるなら当時5歳として、当記事執筆時は71歳ということになります。つまり、学芸大学で生まれ育っても、71歳以下だと実際には目にしたことのない光景ばかりです。

ほんと驚きますよ。ぜひ、知らなかった、けど、どこか"懐かしい"70年前の学芸大学をお楽しみください。

時代背景

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1958年~1960年ごろの東口商店街(現てんぐ大ホールのビル)

最初にサラッと時代背景を説明しておきます。

1945年、終戦。1952年、第一師範駅が学芸大学駅に改称。1958年、学大最初のスーパー・東光ストア 鷹番町店がオープン(現在、てんぐ大ホールのある場所。後に移転して東急ストアに)。

1959年、今回の写真撮影。

1963年、学芸大学商店連合会創設。1964年、学芸大学駅地下通路完成(踏切廃止)、東京オリンピック開催。1969年・1970年、学芸大学駅の上下線が高架化。

終戦後15年。戦争の面影はほぼ消えました。東京オリンピックを5年後に控え、1970年代に向かって経済成長していく時期です。

写真A:創業当時の二葉・笹崎ボクシングジム

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ざっくり言うと、鳩乃湯上空から、イオンスタイル碑文谷方面を向いて撮られた写真です。

創業当時の中華料理 二葉

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6年前、1953年(昭和28年)に創業した中華料理 二葉が写ってます。

看板の文字が面白い。まったく判読できませんが、横3列で文字が並んでいます。

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昭和33年(1958年)の目黒区全住宅案内図です。これまた判読が困難なのですが、スマホで拡大し、それをルーペで拡大して読んでみたところ、「中華 双葉食堂」と書かれているようにも見えました。

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昭和41年(1966年)の目黒区全住宅案内図です。こちらには「二葉食堂」と書かれています。

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改築されきれいになった現在の二葉

この時代の住宅地図ですから、店名が正確に書かれているとは限りません。ただ、写真の文字の雰囲気からすると「中華料理」「双葉食堂」といった文字が書かれているような……。もしかしたら一番右下が「二葉」? とするなら、たとえば「中華料理 大衆食堂 二葉」とか?

笹崎ボクシングジムの不思議

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現在、笹崎ボクシングビルが建っている場所です。

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昭和33年(1958年)の目黒区全住宅案内図によると、角は笹崎座演芸場、その手前が笹崎ボクシングジムです。

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7年後、昭和41年(1966年)の目黒区全住宅案内図によると、角から手前にかけて、中華そば 友楽、バー 波、バー シエル……と並んでいます。また、角を曲がると成駒寿司、茶漬いろり、井上愛鳥店、カサクラ理容所がありました。

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1968年からそのままの姿。現在の笹崎ボクシングビル

不思議です。

資料によると1964年に笹崎ボクシングジムは一時移転します。移転先は現在、HAYATOジムのあるあたりです(後ほど出てきます)。取り壊し&ビル建築が決まっているからこそ、ジムは移転したのですが、その場所を他の店に貸すというのが不思議です。

笹崎ボクシングビルが竣工されたのは1968年。ということはおそらく、1966年頃にはこの建物を壊していたはず。つまり、約2年という短い期間だけ、他の店に貸していたということになります。

なお、笹崎ボクシングビルの1階角にあった花こよみ(閉店)のママによると、花こよみができる前までは「45年続く中華料理があった」とのこと。これは前出の中華そば 友楽でしょう。友楽は笹崎ボクシングジムが一時移転していた時から、ここで営業を始め、ビルが建っても1階角に入って営業を続けていたということになります。

笹崎ボクシングビルの歴史があまりに面白いので、過去に記事にしています。そちらも併せてどうぞ。

西口商店街の様子

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学芸大学駅西口商店街の駅前からスターバックスあたりにかけてのアップです。

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こちらはほぼ同時期、1958年に撮影された学芸大学駅西口の様子です。

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昭和33年(1958年)の目黒区全住宅案内図によると、西口商店街の駅よりから、以下のように商店が並んでいました。

商店街北側(松屋側)は雪印●●、中村屋パン、林商店、松屋洋品店、トミヤ時計店、ふたば書店、大木日の丸薬局、三好野菓子・喫茶、高橋菓子店、寿司清……三沢堂パン菓子(現油そば)。

商店街南側(ドトール側)は北京料理 国華、橘屋菓子店、三河屋酒店、小田写真●店、小田スタヂヲ、飯島果物店、●、レストラン(三沢堂?)、三沢堂菓子、マルシゲ洋品雑貨、精肉惣菜エビスヤ。

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ただ、現在のファミリーマートのところに2棟のビルが並んでいますから、昭和41年(1966年)の目黒区全住宅案内図を参照したほうが、この写真に近いかもしれません。同地図によると、以下のように商店が並んでいました。

商店街北側(松屋側)は利根川青果、中村屋・●、山丸証券、トミヤ時計店、ふたば書店、日の丸薬局、三好野、高橋菓子、清寿司……。

商店街南側(ドトール側)は中華そば 国華、コーヒー白樺、三河屋酒店、小田スタジオ、飯島商店、三沢堂・2階レストラン、朝日生命・丸エストアー……。

"マル"シゲ洋品雑貨と精肉惣菜"エ"ビスヤが共同でビルを建てたので、丸エストアーなのでしょう。

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築70年になろうとしている大鷲ビル(第一ストアー)

ここにもひとつ不思議があります。駅前の第一ストアー(大鷲ビル)です。ネット上にある情報では1961年2月竣工となっていますが、1959年10月の航空写真ではもうほぼ完成しているように見えます。

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この写真から竣工まで1年4ヶ月かかったとは到底思えない。かといって、ネット上の情報(ビルの築年月)=登記情報が誤っているとも思えない。カメラマン・石川光陽氏もしくは氏の写真を整理した人物に、何か勘違いや写し間違いなどがあって、実はこれらの写真は1959年10月ではなく1960年10月だったとか……(竣工まで4ヶ月ならわからなくはない)。いや、ここから1年4ヶ月かかっていた?

確かめるすべも(ほぼ)ないので、これ以上深堀りするのはやめておきましょう。

とりあえず次の写真に移ります。

写真B:創業当時のマッターホーン

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ざっくり言うと、リ・カーリカ上空から魚謙のほうを向いて撮られた写真です。

創業当時のマッターホーン

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7年前、1952年(昭和25年)に創業したマッターホーンが写っています。

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改築されてはいますが、現在のマッターホーンを彷彿とさせます。

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目黒区全住宅案内図によると、マッターホーンの先(西)にはミスズベーカリー、蛇の目すし(のちにコーヒー カトレア)、●●鮮魚店、中華そば おたふく(?)などが並んでいました。

私が一番気になったのは、マッターホーンの手前です。

第一マーケットの残党

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看板の文字は判読できませんが、二文字目と四文字目は横棒です。つまり「第一マーケット」。そう言われたら、なんとなく読めるでしょ?w

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改札前の踏切を待つ人たち。現在の第一ストアー入り口の場所に第一マーケットの入り口が

焼け跡なのか、建物疎開跡なのかなんなのか、駅前、第一ストアーがある場所から線路沿いに第一マーケットという商業施設がありました。戦後直後は闇市的な存在だったかもしれません。

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Raglanへ向かう筋のこの角に最後の第一マーケットがあった

第一マーケットは時代とともになくなり、跡地には第一ストアーや三井銀行などが建ちます。ですが、最南端にちょこっとだけ第一マーケットが残りました。この航空写真に写っているのがまさにそれ。

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ちなみに第一マーケット内を映した動画があります。これはすごい。昭和26年、1951年ですよ。もしかしたら学芸大学最古の動画!?

NHKアーカイブス:消えた税金二百万円 東京

写真C:映画館 目黒文化劇場

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ざっくり言うと、笹崎ボクシングビル上空から五本木方面を向いて撮られた写真です。

目黒文化劇場

「学芸大学に映画館があった」ということはご存じの方も多いことでしょう。けど、その映画館を写真でも何でもいいので、見たことがあるという方はほとんどいないはず。

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これが目黒文化劇場!(※)

学大で生まれ育った、当記事執筆時点で60代半ばの方なら、もしかしたら見た記憶があるかもしれません。

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現在、ミドリエのある場所です(マツヤデンキ隣のマンション&駐車場)。

目黒文化劇場は昭和26年~昭和42年(1951年~1967年)までありました。この写真ではギリギリ写ってないか、あるいはもしかしたらその端がほんの少し写っているかもしれないユニオン座(現在、西口商店街・都民銀行)は昭和27円~昭和37年(1952年~1962年)までありました。

他にもこのアップ写真には面白いものがたくさん写っています。

目黒文化劇場の向かって左隣に小さな木造の一軒家が建っていますが、これは中華そば屋です(店名不明)。その向い、現在、クロネコヤマトの場所には久留美寿司、天吉食堂。

目黒文化劇場のすぐ右手には灰色の棒が立っています。これは千代乃湯の煙突。まだ表(鷹番通り)まで店舗はなく、十字街の中に入り口がありました(焼酎呑ミ処 2nd.の前あたり)。

※明確にはわからないのですが、開館当初は目黒文化映画劇場で、1960年前後に目黒文化劇場となったかもしれません

東口商店街

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次に東口の駅前から東口商店街を見てみましょう。

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商店街北側(ココカラファイン側)は手前から、大沢時計店、パチンコ牡丹、八雲●道具店、藤乃園(のちに不二家)、四月堂(のちに如月堂。ってなんでやねんw)、さくら理容、和かな寿司、高橋大洋堂、生そば ふじや(現まちおか)、八百金(現ダイソー)。

現ダイソーを左折すると、右手にビリヤードさざんか(現エビス参あたり)、左手に喫茶エデン(のちにコーヒー白樺)、アサヒビリヤード(味楽家あたり)、清水果実店などがありました。つまり、この筋にはビリヤード場が2軒あったということです。

そして先述の通り、現在、ぐでんぐでんのあるあたりに笹崎ボクシングジムが一時移転してきていました(1964年~)。

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1960年前後の学芸大学駅東口。現ボラボラ前から
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1950年代、60年代頃の学芸大学駅東口商店街
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1957年頃の東口商店街出口

現在、飲食店密集地帯になっている十字街といきなりステーキの通りも写っていますが、1950年代は飲食店はほとんどありません。十字街は炙や89の場所が中華そば、いきなり~の筋は二葉の裏手にバー パオン、その対面にレストランりゅうくらい?(※)

飲食店が増えだすのは昭和30年代末(1960年頃)からです。昭和41年(1966年)の目黒区全住宅案内図には両エリアにたくさんの飲食店が載っています。

※中華 金華(のちのやきとん きんか)、中川(のちに学大横丁方面へ移転)は1958年には十字街で創業しているはずですが、住宅地図には載ってません

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個人的に面白かったのはこちらです。当時は中華そば 国華だった場所、現在は美容室・luxe+の細いビル。

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江戸・明治の頃は道だったんです。バス通り→Little Otto→日高屋→魚謙と続く道の上に建物が造られています。当たり前ですが、当時は線路も線路沿いの道もありません。この道しかありませんでした。

この角度から撮られた航空写真だからこそ、道だったことがはっきりとわかります。

上海菜館と三谷マーケット

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航空写真Cの上部、端から端まで現在のバス通りなのですが、その左手には創業間もない上海菜館(1959年創業)と飲み屋街と化した三谷マーケットが写っています(一番左上のゴチャゴチャっとした一帯)。

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これは上海菜館が創業する1年前、1958年の目黒区全住宅案内図なので、まだ上海菜館は載っていません。「73」と書かれている空地(?)がちょうど上海菜館が建つ場所です。

三谷マーケットで注目しておくべきは、「A」(拡大図)のすぐ下のぼたん・酒いく世の2軒。

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1966年の目黒区全住宅案内図。上海菜館が載ってます。

このバス通りにも商店がずらり。両地図に載っているのは、篠田氷室(ここにも氷屋があった!)、司酒造焼酎ホール、生そば 花ぞの→朝日屋、川村屋肉店、伊賀屋食堂、村主菓子、三幸青果/フタバヤ、コーヒー●●、ナポリ洋菓子店……。

そして1966年の三谷マーケットには、ぼたんの右隣、酒いく世のあった場所にかすれた漢字2文字。「胡蝶」と読めそうな雰囲気です。実際、スナック胡蝶はここで創業しました。ただ、私が得ている情報では1968年頃に創業しました。この地図が発行された2年後です。

この漢字2文字は「胡蝶」ではないのか、もしかしたら胡蝶の創業はもう少し早かったのか……。

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1967年頃のバス通りの写真です(現在はすぐそこの角を右に曲がると、ステラ・大阪王将・目黒三谷・スターバックス)。写真ではわかりませんが、どこかに上海菜館が写っています。

こんな時代から上海菜館、胡蝶はやっていたんですねぇ。

写真D:碑文谷公園のラーメンと商店会・平和会

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最後は碑文谷公園周辺。元写真がボケてる(ブレてる?)ので、AIにくっきりしてもらいました。

おそらく、これまでの写真A~Dは時系列で並んでいます。ヘリコプター(?)が五本木方面から都立大学方面へと飛んでいて(逆かもしれない)、その間にシャッターを切っていました。

碑文谷池のボート発着場

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碑文谷池(弁天池)のボートは、ここに着いていました。

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現在、ベンチになっている場所です。ボート乗り場は対岸にあります。

余談ですが、盆踊りをやる広場も池のように見えます。1930年代から現在までの航空写真や住宅地図を何枚もチェックしたのですが、ここが池だったことはなさそうなので、影の具合で水面ぽく見えているだけだと思います。たぶん。

翠紅園と中華そば・平和会

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一番の注目ポイントはこちら。

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現在、東京ガスネットワークのガバナ(圧力調整器)のある角には翠紅園という植木屋がありました。明治から昭和初期にかけて、祐天寺で広大な造園・植木業を営んでいた翠紅園と関係があると思います。

そして、その隣には中華そば 三山? ここには三上さんという方がお住まいだったようなので、もしかしたら三上の誤植だったり?

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当時、この界隈には平和会という商店会がありまして(範囲など詳細は一切不明)、この中華そば屋の店主が商店会会長だったのでしょう(商店会の住所が中華そば屋の住所になっていた)。

この時にあったかどうかは定かではありませんが、少なくとも昭和41年段階では、線路沿いに深山堂菓子店、中華 八宝軒、バー菊などがありました。

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航空写真を見てみても、単なる住宅ではない、商店のような外観をした建物がたくさん見受けられます。平和会という商店会があったくらいですから、それなりに多くの商店があったのだと思います。

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現在の高架沿いは住宅地となっています。

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ちなみに、こちらは1969年(昭和44年)8月9日に撮影された碑文谷公園通り。線路の向こうに見える木々は碑文谷公園。下り線が高架化された翌日に撮影されたものです。一連の航空写真とは10年違いますが、こんな雰囲気の町並みだったのでしょうね。

知ると楽しくなる

今回ご紹介した航空写真で私が一番衝撃を受けたのは目黒文化劇場です。ご覧の通り、当時は木造2階建ての家屋がほとんど。そんな街にドカンと建っていた目黒文化劇場。大迫力だっただろうなぁ。今あったとしても相当大きいですしねぇ。

みなさんはどの光景に惹かれましたか? 昔の町並みを知り、いま住むこの街の生活がより楽しくなる、そんな一助になっていれば幸いです。

※私が見逃していて、「ここにこんな面白いものが写っているよ」といったことがありましたら、教えてください

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最後に、今回登場した写真を含め、筆者のX(旧twitter)では「#学大カラー化」ということをやってます。学芸大学および近隣地域のモノクロ写真をAIでカラーにしているのですが、もしよければそちらもどうぞ。

昭和館と石川光陽

戦中・戦後の国民生活に関わる歴史的資料・情報を収集・保存している国立博物館・昭和館(九段下)。同館は昭和館デジタルアーカイブというウェブサイトを開設していて、所有する数多くの資料・写真を公開しています。

同館および同サイトで公開されている写真は30名ほどのカメラマンによって撮影されています。その内の一人が石川光陽氏です。

石川光陽氏は1904年、福井県生まれ(~1989年)。東京・九段の蜂谷写真館で修行し、1927年、警視庁入庁。東京大空襲の被害を記録したことでも有名で、終戦直後、GHQから撮影フィルムの提出を要求されたのですが、自宅の庭などに埋めて守り通したという逸話があります。

今回、ご紹介した4点の写真は石川光陽氏が撮影したものです。同氏は目黒区八雲に住んでいたということもあって、都立大学や学芸大学の写真もたくさん撮影しています。

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