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学芸大学の市場 part3:戦後の市場・マーケット・ストア・センター・百貨店

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戦後の市場

これまで、戦前の市場を見てきました。今回は戦後の市場です。

呼び方はさまざまです。市場・マーケット・ストア・センター・百貨店などなど。複数の商店がひとつの施設内に収容されている、そのような商業施設が市場・マーケット・ストア・センター・百貨店(以下、市場)などと名乗っていましたし、名乗っています。

各店舗はしっかりと区分けされていることもありますし、大きなフロアにほとんど仕切りがなく並んでいる場合もあります。

最初にひとつ注意書きを。

終戦直後、学芸大学にも闇市的なマーケットがありました。これに関しては次パート(シリーズ最終回の予定)で紹介します。今回ご紹介するのは終戦直後のマーケットが消滅したのち、1950年代、1960年代以降に設立されたであろう市場です。

当時の学芸大学の雰囲気

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画像転載元/失念

1957年(昭和32年)頃の学芸大学東口商店街の入口と言いますか出口と言いますか。香氣 四川麺条の交差点です。道の両端にある側溝が時代を物語ります。

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画像転載元/目黒デジタル百科事典 資料データベース:学芸大学駅西口付近

1958年(昭和33年)頃の学芸大学駅西口。さぼてんあたりから富士そば方面を向いています。

「雪印牛乳」という看板のある店は中村屋です。1953年から多店舗展開に乗り出し、学芸大学にも店舗を構えていました。

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画像転載元/目黒デジタル百科事典 資料データベース:学生でにぎわう学芸大学駅

1960年(昭和35年)頃。学芸大学駅を西口から東口方面に向いて撮影しています。

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画像転載元/失念

学芸大学駅の向こう側に大鷲ビル(第一ストアー)が見えて、まだ踏切なので、1961年(昭和36年)~1964年(昭和39年)の間に撮影されたものです。

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I-NEST:「昭和30年代の学芸大学は田園風景の広がる田舎町。若者は渋谷に繰り出していました」 小栗 健(役者)

1964年(昭和39年)、地下通路の工事をしている様子です。これで踏切がなくなりました。

上の写真の大鷲ビルの屋上から撮ったんでしょうか。ボラボラの場所が不二家でした。

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画像転載元/失念

1967年(昭和42年)頃のバス通りです。

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画像転載元/Googleストリートビュー

現在の同じ場所のほぼ同じアングルがこちらです。

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画像転載元/国土地理院:地理院地図

1963年の航空写真。西口商店街は商店で埋まっている感じがします。東口商店街はセブンイレブン以東にまだ普通のお宅がいっぱいありそうです。

これはすごいですよ。1961年(昭和36年)の環状七号線です。といっても、まだ環七が整備されていない区間ですが。

02:45 南千束交差点
03:06 南交差点付近?
03:17 柿の木坂一丁目交差点?
03:29 野沢銀座商店街(ガストあたり?)
03:44 アサヒ食品デパート(のちのオオゼキあたり)
03:46 上馬交差点

一番の注目点は2:45~3:29と3:29以降のギャップです。当時、都内でも有数の賑わいを見せていた野沢銀座商店街や、これまで見てきた駅周辺は商業化が進んでいましたが、それ以外、特に碑文谷あたりはまだまだ畑や雑木林がいっぱい残っていました。

とりあえず、野沢銀座商店街の様子は学芸大学駅界隈の商店街の様子を想像するのに、大いに役立ってくれそうです。

さて、時代の空気を掴んだところで、本題、戦後の市場に移ります。

過去にあった学芸大学近隣の市場

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薄いピンクは過去にあった市場。濃いピンクは記事執筆時にある市場

ほとんどが設立年不明です。もしかしたら戦前からあった市場もあるかもしれません。

また、ここに挙げたのはごく一部です。まだまだ他にあったと思います。

丸エストアー

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住所:東京都目黒区鷹番3-6-18

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現在、ファミリーマート学芸大学駅西店の場所にはマルシゲ洋品店と精肉・惣菜のエビスヤがありました。

地理院地図の航空写真では1950年代後半から1960年代初頭にかけて、ここが丸エストアーになったように見えます。

追記。「目黒区全住宅案内地図帳 昭和41年」(1966年)では、もう丸エストアーでした。追記以上。

マルシゲとエビスヤ。両店が一緒にビルを建て、ストアー名は両店の頭文字を取ったのでしょう。当時、どんな商店が入っていたのかは不明です。

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なお、複数店舗が共同でその土地にビルを建てるということは珍しいことではありません。学芸大学東口商店街のサンビームプラザ(養老乃瀧が入っているビル)も同様です。ビルの真ん中に階段・エレベーターがあるのですが、左右でオーナーが異なります。共同で建てたからです。

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画像転載元/Googleストリートビュー
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画像転載元/Googleストリートビュー

丸エストアーという呼称がいつまで使われていたかも不明です。そしていつからかビル名が呉水ビルとなりました(そもそもビル名は呉水ビル、施設名が丸エストアーだった可能性も)。

山手果実店が改築中にここで仮店舗営業してたんですね。シャッターの数からすると、小さめのテナント物件が結構ありそうです。最盛期にはいろいろなお店が軒を連ねていたのでしょう。

呉水ビルは2011年~2012年頃に取り壊され、現在のビル・カザーナ学芸大学が建ちました。ちなみに2000年段階でここに入っていたと思われる店・企業は以下の通りです。

  • どんと
  • インディゴ
  • サウナ学芸
  • タカノ広告事務所
  • リンクスアカデミー
  • 元気ママの店
  • 天仁茶業特約店
  • 皇漢茶業本舗
  • 竜鳳皇漢堂薬局
  • 高麗苑
  • 魚米
  • マルシゲ洋品店

五本木食品センター

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画像転載元/Googleストリートビュー

住所:東京都目黒区五本木1-23-1

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五本木通り沿い、まいばすけっと 祐天寺駅西店の場所に五本木食品センターがありました。

航空写真を見る限り、1940年代までは小さな建物がいくつかあっただけです。そこに大きな建物が建ったのは1950年代後半~1960年代前半あたり。ですから、この頃にできたのではないかと推察します。1990年代後半から2000年代初頭あたりまでは営業しているお店もそれなりにあったのではないでしょうか。

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住宅図を見てみると、「目黒区全住宅案内地図帳 昭和33年」(1958年)はまだ空き地です(2422と書かれている場所)。

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「目黒区全住宅案内地図帳 昭和41年」(1966年)では上目黒食品センターとなっています。五本木という町名ができたのは1968年頃。ですから、当初は当時の住所から上目黒食品センターだったんですね。

「目黒区全住宅案内地図帳 昭和54年」(1979年)ではもう五本木食品センターなんですが、2階はアパートで、3階の福助・浪花堂はなんでしょう。

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画像転載元/ゼンリン住宅地図 '94 目黒区

1994年の住宅地図によると、清和調剤薬局 五本木店、奥吉(精肉)、古森商店(鮮魚)、八百三が入っていました。

吉崎食品センター

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画像転載元/Googleストリートビュー

住所:東京都世田谷区下馬5-14-17

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鈴木精米店隣、下馬五丁目会館のはす向かいに吉崎食品センターがありました。この筋も表の世田谷観音通り(当時は明薬通り)もずっと昔は商店街然としていたそうです。

いつからあったかは不明ですが、「目黒区全住宅案内地図帳 昭和41年」(1966年)では農協食品センターとなっています。当初は農協だったんですね。

昭和47年(1972年)段階でも農協食品センターで、昭和54年(1979年)では吉崎食品センターとなっていました。

2009年段階のGoogleストリートビューでは精肉店しかやっていなさそうです。以前、寄せられた情報によると、魚屋、八百屋もあったそうです。そして、2010年~2014年頃になくなりました。

ちなみに吉崎食品センターは東紅苑とご親戚筋(or同一法人)です。

二葉フードセンター

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住所:東京都目黒区目黒本町5-32-13

平和通り商店街にあった二葉フードセンターは界隈最大の市場でした。行かれていた方も多いことでしょう。私もしょっちゅう行ってました。

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二葉フードセンターに入っていた八百屋・二葉屋は1938年(昭和13年)、煮豆屋として創業。二葉フードセンターがいつからあるかはよくわかりませんが、1950年(昭和35年)に二葉ビルが建ったと思われます。少なくともその頃にはマーケットのような形態になっていたんじゃないでしょうか。

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「目黒区全住宅案内地図帳 昭和41年」(1966年)。まだ二葉フードセンターのビルだけです。

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「目黒区全住宅案内地図帳 昭和47年」(1972年)でもまだ一棟。

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「目黒区全住宅案内地図帳 昭和54年」(1979年)では3棟がつながっています。ただ、こういうつながり方をしていた、つまり、のちの二葉屋本体パートが一番最後にくっついていたというのは意外でした。びっくり。

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最後はBakery Bran(ベーカリーブラン)鳥岡鮮魚 須永玉川商店天麩羅 天吉藤海産(すぐ近くに移転)、伊勢武、フラワーショップ くまがい、二葉屋が入っていました。過去には新井屋肉店、平野精肉店、鳥正、ニュー山加(山加水産)、フアーストミートヒラノ、大倉商店、共栄菓子店、万松食品、いとうや、マイキッチン、ウエスタン、デイリー&デイリー、クリーニングみつば、ヒロ美容室(2階)などが入っていました。

2021年10月9日、韓国惣菜店・玉川商店が閉店して、二葉フードセンターから店舗がすべてなくなりました。

中央百貨店

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住所:東京都目黒区原町1-5-7

にこま通り商店街沿い、にじいろ保育園 原町の場所に中央百貨店がありました。1952年にできたと聞き及んでます。2016年末に閉業しました。

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最後は魚富、農家の直売所 ココカラ、秀花園、新井屋精肉店、そして居酒屋・やるびーが入っていたと記憶しています。きゃべたま本舗 西小山店もあったかな?

やるびーには何度も行きました(わざわざ学芸大学から!)。マスター(故)が最高でした。上画像の中央、赤いポロシャツがマスターです。

銀座ストアー

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住所:東京都品川区小山4-9-8

パルムG、セブンイレブン 品川小山4丁目店前にありました。いつからあったかは不明で、2019年夏になくなりました。

晩年は肉の大和と丸二青果が営業していました。ただ、看板の店名の表記・配置からすると、1991年段階ですでに2店舗しかなかったと思われます(1991年に市内局番が4桁に)。

丸二青果では何度か野菜を買ったことがあります。各地にある丸二青果についてご主人に話をうかがったのが強く印象に残っています。

その他のもしかしたら?な施設

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中央中通り、現在、ローソンの場所に日之出マーケットがありました(1958年時点)。並びには日之出マーケットの別館のような形で鮮魚店があり、これはのちに(?)、魚みつとなります。

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例の五叉路、現在、まいばすけっとの場所にイシブミフードセンター(1966年時点)。のちにスーパーのスギノキヤになります。

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五本木交差点近く、五本木通り沿いに五本木フードセンター(1966年段階)。戦前、このはす向かいに五本木市場という私設市場がありました。

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画像中央、西口商店街にマルミズスーパーマーケット(1966年段階)。これはセルフ式のスーパーでしょうか。ちなみに東光ストア 鷹番町店は1958年オープン。まあ、こんなところにスーパーがあったというのが面白く、一応、載せておきました。

以上すべて、今回のテーマである市場・マーケットかどうかは定かではありません。

いまもある学芸大学近隣の市場

数が少なく、また、各市場に入っている商店の数も少ないのですが、いまなお存続している市場をご紹介します。

学芸大学駅前の第一ストアーは次のパート「戦後の闇市・マーケット」に登場します。

中村屋食品センター

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住所:東京都世田谷区下馬4-14-3

世田谷観音通り沿い、東京学芸大学附属高等学校近くに中村屋食品センターがあります。現在は中村屋青果店と市川精肉店が入っています。

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市川精肉店は1971年(昭和46年)創業なので、少なくともそれ以前から中村屋食品センターはあったと思われます。地理院地図の航空写真からすると、1950年代後半から1960年代初頭あたりかも?

東山ストアー

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住所:東京都目黒区東山1-30-1 石綿フラット

東山いちょう通り沿い、区立東山中学校・目黒東山住宅のすぐ近くに東山ストアーがあります。

いつからあるかは不明ですが、戦前からこの場所には建物が建っていました。現在の建物・石綿フラットは1998年築ですが、改築される前の建物は1960年代頃に建ったものでしょうか。

精肉店と青果店が営業しています。精肉店は秩父食肉センター川島、肉の東山などの名称をネットで見つけることができるのですが、正確な店名は不明です。

青果店は高柳青果か東山ストアー青果部と呼ばれています。

緑ヶ丘百貨店

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住所:東京都目黒区緑が丘1-11-15

緑が丘駅前、中根小通り沿いに緑ヶ丘百貨店があります。いつからあるのかは不明ですが、戦前からこの場所には建物が建っていました。

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隣のビル・ミストラル緑が丘とつながっています。二葉フードセンターも複数の建物がつながっていました。こういうのってなんかいい。

現在は魚桂と八百元が営業しています。

魚桂は江戸時代、文化13年(1816年)、南品川の猟師町(現在の東品川一丁目。天王洲アイル近く)で創業。2023年に作られたであろう公式サイトには「現在の場所に店を構えて約74年が経ちました」とあるので、1949年(昭和24年)頃に現在地へ移転してきました。

魚桂はディスプレイ販売をしていません。注文ごとに切り分けるオーダーカット制。電話で注文するようなのですが、詳しいことは聞いてみてください。

ちなみに表に停まっている光岡自動車のかわいいマイクロカーは魚桂の車です。

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ある日、緑ヶ丘百貨店を訪れた際、八百元のお母さんに話をうかがいました。まとめると以下の通りです。

八百元ができたのは50数年前(1970年代?)。夫の父親(=義父)が始めた。もともとは尾山台で八百屋を営んでいた。

八百元ができる前も数十年続いていた八百屋だった。その八百屋が閉業したので、その場所で八百屋を始めた。

以前は肉屋、乾物屋、お茶屋もあった。

スーパーにこういう商売が押された。若い人たちはスーパーへ行ったり、ネットで買ったり。店頭で話しながら買い物をするのは、若い人たちにとっては煩わしいのかも。

尾山台は若い人たちも増えたし、新しいお店もいっぱいできてるけど、ここ(緑が丘)は変わらないわねw

跡継ぎはいないから、私たちの代でもう終わり。

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「これ、創業当時にいただいたものなの。古い物よ」

「立派ですねぇ。こういうのって最近はないですよねぇ」

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これは判じ物の押絵でしょうか。この類は見たことがありません。満互芽園(もやしの会社?)から贈られたものですね。

お母さん、貴重なお話ありがとうございました。

市場とスーパー

1969年(昭和44年)に放送されたNHK「現代の映像~ある商戦」です。

大阪府豊中市の千里園にあった市場・大成ストアー。昭和30年代にできたと言われているこの市場の1階には31軒の商店が入っていました。

NHKのアナウンサーは「商店街」と言っていますが、大成ストアーの店主たちは「市場」と言っています。見方によってどちらとも言えるとは思いますが、私の感覚からすると市場のほうがしっくりきます。

それはいいとして、近隣の駅前に大きなスーパーができ、客足が遠のきます。そして大成ストアー店主たちは2階に自分たちでスーパーを作ろうと決意し、実際にオープンするに至りました。ここまでするケースはレアだったのではないでしょうか。

戦前は基本的に市場vs個人商店でした。戦後になるとスーパーの出現により、スーパーvsその他となります。もはや市場か商店街か個人かなどと言っていられない、そんな状況がこの映像でもよくわかります。

学芸大学でも、ひとつ象徴的なエリアがあります。五本木食品センターのあった界隈です。

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~2000年頃?五本木食品センター
~2007年スギノキヤ
2007年~2010年ユネスコ生鮮館 五本木店
2010年~2017年スーパーAZUMA 五本木店
2016年~まいばすけっと 祐天寺駅西店

まいばすけっとの前にあった宝屋酒店は2015年~2016年頃に閉業しているように見えます。

戦前は商店がたくさん建ち並んでいた五本木通り。戦後、徐々に個人商店は減り、このエリアにスーパーができたその時期に市場もなくなりました。ミニスーパーができてスーパーもなくなりました。

それぞれに因果関係があると単純に言うつもりはありません。店舗の老朽化、店主の高齢化(跡継ぎ問題)、生活スタイルの変容などもあったと思います(スーパーの運営自体がどうだったのかという問題も)。逆に、それに合わせた形でサービスが提供されてきているとも言えるかもしれません。いずれにせよ、時代の流れみたいなものがよく表れているなぁと感じます。

学芸大学自体が市場みたいなものだった?

関西にはまだ市場がたくさんありますが、関東は少なくなってきていると思います。東京都23区になると、相当数が絞られるんじゃないでしょうか。

学芸大学駅付近も市場は少なかったですし、現在もほとんどありません。それには以下のような理由が考えられます。

  • 近隣エリア(三軒茶屋・中目黒・武蔵小山・自由が丘など)に比べると人口も少なく、小さい町なので需給バランスが取れていたから、市場を構えて商売をしてもうまみが少ない
  • まったくなかったわけではないけど、学芸大学駅周辺はそこまで大きな空襲の被害を被らなかったので、戦前のままの区画・建物で商売ができた
  • 各商店の結束が強かった(商店街に力があった)

あるいは、学芸大学の商業圏は狭いです。そこにいろいろな商店がギュッと寄せ集まっています。つまり学芸大学駅周辺エリアそれ自体が"市場"のようなもの。だから市場のような施設は不要だった。ということかもしれません。

とはいえ、少ないからこそ、この界隈にある/あった市場がとても面白く、興味が惹かれます。二葉フードセンターってやっぱおかしかったよw すごかった。

さて、次回、最終回は終戦直後の闇市に関してです。これがまたね。政財界・ヤクザ界の超大物たちが、この街の裏側で暗躍(?)していました。お楽しみに。

※当記事の内容に関して、何か情報をお持ちの方は、ぜひご連絡ください。

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