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Kビルディングの歴史をたどって見える学芸大学の今昔~国会でも問題になった東光ストア鷹番町店・昭和の商店会

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肉は肉屋で、魚は魚屋で、野菜は八百屋で買う――それが当たり前、いや、それしかなかった時代の話。

国会で激しい論戦になっていたと、果たしてどれだけの方がご存じでしょう。学芸大学住人であれば、必ず一度は目にしているこのKビルディング。その歴史を振り返ります。これがめっぽう面白い。

と、その前に、Kビルディングとも大きく関係する、Kビル(の前身)ができた頃の商店会/商店街を見てみましょう。

昭和36年当時の学芸大学の商店会/商店街

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商店街・スーパーにかかわる法律制定・組織設立の年表です。

ざっくり言いますと、個人商店・小規模商店を保護・補助していこう、大規模スーパーは規制していこうというのが昭和の流れです。

昭和7年の商業組合法とそのアップデート版・昭和18年の商工組合法、昭和37年の商店街振興組合法が商店街の組織化を促しました。

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こちらは「目黒区商工名鑑」(1961年/昭和36年)の区内商店会の一覧です。詳しくは後述しますが、Kビルディング(の前身)ができた3年後です。

学芸大学駅界隈の商店会を抜き出してみます。

  • 油面商交会
  • 清水商店会
  • 中四商店会
  • 上五商店会
  • 五本木通商店会
  • 学芸大学駅西口商店街連合会
  • 学芸大学西口商店会
  • 公園通商栄会
  • 三谷町本通商店会
  • 平和会
  • 東栄会
  • 清水中央通商店会
  • 清水稲荷通商店会
  • 目黒区清水小売市場

東急ショッピングコリドールができたのは1971年(昭和46年)。東急ショッピングコリドール会はまだありません。

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画像転載元/失念

東栄会は現在の学芸大学駅東口商店街です。この写真では「東栄会」「東口商店街」両方が掲示されていますね。

一覧には学芸大学駅西口商店街連合会と学芸大学西口商店会があります。後者は現在の学芸大学西口商店街だと思うのですが、前者は何でしょう。

中四商店会はのちに区役所通り商店会となり、現在は中央中通り商店会です。

上五商店会は現在の五本木一丁目商店会

五本木通商店会は現在の五本木商店会。

三谷町本通商店会は鷹番三丁目本通り商店街(ECO365)となって、現在は学芸大学本通商店街? 正式名は何でしょう。

平和会はおそらく現存していません。本部の住所が三谷町35なので、線路沿い、碑文谷公園あたりです。昔、碑文谷公園の線路を挟んだ反対側あたりには飲食店が結構ありました。

清水中央通商店会は中央中通りのことではなく、円融寺通りのこと。そば屋・信濃屋のあるあたりです。商店会はもうないと思います。商店によっては他の商店会に移っているかもしれません。

目黒区清水小売市場はのちに商店会名を清水市場一致会としました。清水市場はもうありませんから、商店会もありません。

清水町商店街のこと

前にも述べた通り震災後に急激に多数の移住者の為、戸数、人口が急増した。道路沿いに日用品販売の店舗が建ち漸次多数に及んだ。従って日用雑貨は申すまでもなく、野菜、果物等に伸び尚食糧品から飲食物の売店、又店内で飲食も出来る様にまで伸びて来た。

始めのうちは目黒通りの町並みで組織された。清水商店会に加入して互いに販売方法の研究とか親睦を旨とする会合等が行はれていたが当町内の店舗が増加するに及んで、清水稲荷通りと称して此の通りに並ぶ商店三十余の連合に成る共栄会が生まれ旧清水通商店会と独立して新規に商店会が発足したのである。昭和二十六年頃に会長として(以下略)

引用元/目黒区清水東町会地区誌考 其の三(1966年(昭和41年))

1923年(大正12年)、関東大震災。1927年(昭和2年)、碑文谷駅開業。界隈の人口が激増し、これに伴い店舗も急増。商店街が活性化していく様子がうかがえます。

関連してひとつ興味深かったことをご紹介します。

確か学芸大学駅が高架化する際(1969年・1970年頃)のことだったと思います。現在の東急ストアの裏手、ミナミ・マツヤデンキの対面の高架下にも、東急が駅改札を作ろうとしていました。しかし、「人の流れが変わる」として商店街が猛反発。結果、改札は作られませんでした。

(当時の)商店街の力を感じさせるできごとでしょう。

学芸大学のスーパー~Kビルの歴史

とはいえ、世の趨勢には抗えません。

1956年(昭和31年) 西友(西武ストアー)・東急ストア(東光ストア)
1957年(昭和32年) ダイエー
1961年(昭和36年) イトーヨーカ堂(ヨーカ堂)
1963年(昭和38年) サミットストア
1965年(昭和40年) オオゼキ・マルエツ(丸悦ストアー)・スーパー三和

1950年代からスーパーマーケットが勃興します。これは学芸大学においても同じです。学芸大学でもっとも早くにできたスーパーは東光ストアで、その東光ストアが入っていたのがこちら。

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現在、ドコモやドトール、てんぐ大ホールが入っているKビルディング。この街の歴史を見る上で、とても重要な立場にあると私は考えています。

Kビルディングができるまで

住宅地図(目黒区全住宅案内地図帳)・航空写真(国土地理院:地理院地図)でKビルディングができるまでを追ってみます。

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1936年(昭和11年)6月11日。のちほど住宅地図でも見ますが、空き地があって、角には北村薬局があります。本稿の主役です。

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1944年(昭和19年)11月4日。判然としませんが、空き地の商店街沿いに建物が並んでいるようにも見えます。

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1947年(昭和22年)9月8日。おそらく空襲による焼跡です。ただ、終戦から2年経ってます。ピンク枠の左上と右下に1軒ずつ建物が建っています。左上は北村薬局かもしれません。

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1956年(昭和31年)3月10日。Kビルディングの前身は1958年頃に竣工しました。ピンク枠の右半分はビルのようなものができています。建設の最中でしょうか。

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1958年(昭和33年)に発行された目黒区全住宅案内地図帳です。上の航空写真によれば、もうビルのようなものが建ち始めているはず。けど、こちらはまだ空き地。この齟齬は何でしょう。発行は1958年(昭和33年)ですが、内容はそれ以前なのかもしれません(調査→制作→発行にスパンがある)。

いずれにせよ、角には北村薬局があったということが住宅地図でわかります。

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1963年(昭和38年)6月26日。Kビルディングの前身が建っています。

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1966年(昭和41年)。Kビルディングの前身は1階が東光ストア 鷹番町店、2・3・4階は住宅公団アパートでした。ここが本稿のポイントです。詳細はのちほど。

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1973年(昭和48年)。1970年に東光ストア 鷹番町店は東横線高架下に移転。その後、ピーコックストアが入りました。ピーコックストアがいつまであったかは不明です。

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1975年(昭和50年)1月4日。1階と2階で段になっている構造がよく見えます。

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マ「グ」ドナルドとかわいい誤植

1979年(昭和54年)。ピーコックストアは閉店し、マクドナルド(!)など5つの店舗が入りました。そして、「住宅公団」の表示はなくなり、代わりに双碧レジデンスというビル名が記載されるようになりました。1973年から1979年の間に日本住宅公団はここから撤退して、一般住宅になったということなのでしょう。ちなみに日本住宅公団は1981年に解散しています。

結局、ピーコックストアは10年と持たなかったってことですか。

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現在のKビルディングは淡い緑色。ビル名を"双碧"としているので、建て替える前も緑っぽかったんでしょうね。

"双"はなんだろう。双碧レジデンスには鷹の像が2体飾られていたとか? そして現在のKビルディングに据えられているこの2体の鷹は当時からのものだったり?(エレベーターホール前にもう1体あるのですが。後ほど写真がでてきます)。

話はそれますが、こういう古い住宅地図を見ていていつも思うんです。全部、手書きですよ。正気の沙汰とは思えませんw

※追記:その時代のことをご存じの方を含め、複数の方から、「ここにマクドナルドはなかったのでは」という声をいただきました。西口のマクドナルドができたのは1974年。確かにこんな小さな街にマクドナルドが2軒あったとは考えにくい。この地図の「マグドナルド」はもしかしたら何かの間違いかもしれません。追記以上

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1994年。建て替え直前。ミスタードーナツがありました。これには思い入れのある方も多いことでしょう。

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2009年(平成21年)。1994年に建て替えられたKビルディングです。右上の2階以上のRが特徴的ですね。

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おまけ。

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1991年の学芸大学の動画です。1991年ということは、まだ双碧レジデンスの頃。ミスタードーナツの看板が遠くに見えます。

国会でも問題となったKビルディング

先述の通り、Kビルディング(の前身)ができたのは基本的には小規模(個人)の商店を保護しよう、大規模な店=百貨店・スーパーなどの出店を規制しようという時代のことです。

登場人物はこの3名。

  • もともとここで薬屋をやっていた北村氏
  • 日本住宅公団(現UR)総裁・加納久朗氏
  • 小売商業特別措置法案外一件審査小委員・田中武夫氏(社会党・労働運動家)

※Kビルディングの「K」は何か、これでわかりました。

ことの始まりはこうです。

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東口商店街の東光ストア 鷹番町店。画像転載元/失念

1958年(昭和33年)、薬屋・北村氏の土地に日本住宅公団が4階建てのビルを建てた。

1階は北村氏が所有。2階以上は日本住宅公団が所有。

1958年(昭和33年)12月13日、1階に東光ストア 鷹番町店(のちの東急ストア)がオープン(北村氏が東光ストアに貸した)。

この状況に田中武夫氏が疑義を唱えます。以下は第31回国会 衆議院 商工委員会(昭和34年2月26日)の会議録からです。

われわれ商工委員はこの小売商業特別措置法案、商業調整法案の審議に当りまして、実際の状況を視察するということで(中略)学芸大学前の東光ストアを見たわけですが、そのときに驚くべきことを聞いたのです。

あの東光ストアは経営者は東急系統の資本ですかが建物を建ててやっておると思っておったところが、あれは何か住宅公団のいわゆるげたばき住宅といいますか、下を店舗にして上を住宅にする、あれの下全部を借り切ってスーパー・マケツトにしておる、こういうことを聞いて私は驚いたわけです。

総裁御承知のように、日本住宅公団法にはその第一条に目的が明記してあります。あらためて読んでみますと「日本住宅公団は、住宅の不足の著しい地域において、住宅に困窮する勤労者のために耐火性能を有する構造の集団住宅及び宅地の大規模な供給を行うとともに……」こういうことになっているわけです。すなわち住宅難緩和を目的としたものだと思うそのことによって法人として出発し、政府の援助も受けておる。

ところがその住宅公団が建てたの店舗を、一つの東光ストアなるものに貸し付けて、そこ全体がいわゆるスーパー・マーケットになっておるというようなことについては、住宅公団法第一条の目的に即した運営と考えておられますか、いかがでしょうか。

※読みやすいよう筆者が改行。以下同

「日本住宅公団は、住宅の不足の著しい地域において、住宅に困窮する勤労者のために」、政府の援助を受けつつ建てられるもの。そこにいち私企業(東光ストア)が入るというのはいかがなものか、と。

これに対して日本住宅公団総裁の加納久朗氏はこう答えます。

下の設備を東光ストアに貸したことは目的違反ではないかというお話でございますが、この場合は北村と申します薬屋さんの土地でございまして、薬屋さんの施設を住宅公団が作りまして、その上の三階だけを賃貸住宅を作って、それは住宅公団の所有でございます。

下は今申しましたように、薬屋の北村と申す者にその施設を作ってやったのでありまして、所有者は北村なのであります。従って北村の薬屋もそこに出しておりまして、余った分を北村が他に貸し与える、こういうことになっております。

下の施設分につきましては、政府出資の金を入れておりません。上の賃貸住宅に対しては政府の出資と、市場から借りました金をまぜて作っておるわけでありまして、下の部分は北村の所有に属しております。

いや、この土地は北村氏のものだし、東光ストアが入っている1階は北村氏の所有。知らんがな、とw

社会党の労働運動家たる田中氏は論点をずらしつつ、本音を出し始めます。

私は二階以上を住宅に貸しておることを違反だとは言っておりません。なるほどあの中には北村さんか何か知りませんが、一画は薬局です。その他が全部東光ストアなんです。それが地元商店街の圧迫になり、商店街の人たちと問題をかもしておるわけなんです。

日本住宅公団の設立目的の話から、商店街を圧迫するスーパーけしからん!という話にシフトしましたw

日本住宅公団総裁の加納久朗氏は冷静に反応します。

それでこの問題が、地元の商店街の組合から文句が起りまして、北村とその商店街との間にもんちゃくが起って、スーパー・マケツトを作ることが不都合ではないかというようなことが起りましたので、住宅公団といたしましては広瀬区長にこの解決あっせんを願ったわけであります。

区長の方がこの点はあっせんするからということで、区長にあっせんを委託したようなわけでありまして、住宅公団といたしましては、たとい北村に貸した場所でありましても、それが施設を保てないとか、保全が不十分であるとか、あるいは下にできるところのものがパチンコであるとかその他の風紀を害し、住宅に入る人のために非常に環境を悪くするというような場合でない限りは、これは承認せざるを得ないような状態でございます。

北村氏と商店街がモメてるって、日本住宅公団関係ないじゃん。とはいえ、放っておくわけにもいかないから、目黒区長にお願いしたんですよ。どうにかしてくれって。そしたら、区長がなんとかしましょうと言うから、お任せしてるってだけ。ウチなんか悪い?とw

ところで。

「公団と東急/東急ストア」と聞くと、何かを思い出しませんか? はい、田園都市線のたまプラーザ駅や青葉台駅なども同じです。駅近くにビルを建て、1階に東急系のスーパーを入れ、2階以上は公団にするというパターンです。

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たまプラーザ駅前ビル(1968年(昭和43年))。画像転載元/東急100年史:第3章 第3節 第2項 人口定着に向けた街づくり
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左:青葉台プラーザビル(1972年(昭和47年))、右:青葉台ショッピングセンター。画像転載元/同上

1968年3月には青葉台プラーザビルに続いて、たまプラーザ駅前ビルが竣工した。これは青葉台と同様に市街地住宅として県公社が建てたもので、1階と地下1階を商業施設とし、地下2階には多摩田園都市で初めての地下駐車場を設けた。住宅部分は県公社による地上権付きの分譲住宅となり、当社は地上権設定の権利金を収受した。また、当社所有となる商業部分を「たまプラーザショッピングセンター」(後述する1982年開業の「たまプラーザ東急SC」とは別の施設)として開業、青葉台と同様に東光フードマートと東光ホームマートが出店した。

引用元/同上

郊外型・田園都市線・県公社という違いはあれど、これは単にビルにスーパーが入るという話ではなく、東急という超巨大資本による遠大な街づくり構想の一環。政府(or自治体)のバックアップも入った狡猾な公団(or公社)が東急と手を組み、ガンガン開発を進めています。いち労働運動家が吠えても、どうにもこうにもなのです。

いま現在の状況を知っている私たちの感覚からすると、「田中さん、そりゃ無理筋だよ」と思ってしまうのですが、まだスーパーのない時代はスーパーの存在がいかに大きかったか、いかに衝撃的だったかが、このやりとりでうかがえます。「近所にドン・キホーテができる!」どころの騒ぎじゃなかったんですw

なお、上の東光ストアの写真ですが、ビル壁面に「小杉荘」とあります。何でしょう。住宅公団アパートに小杉荘という名称がついていたのでしょうか……。

スーパーができた後の学芸大学

その後、学芸大学駅が高架化され、東光ストアは高架下へと移転。東光ストアの場所にはピーコックが入りました。1975年(昭和50年)にはダイエー碑文谷店も開業しました。

さて、スーパーができた後、この街はどうなったでしょうか。田中氏が懸念したようなことは起こったでしょうか。

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  • 八百金
  • 今井園(茶)
  • 山本茶店
  • 丸富食品
  • 八百吉商店
  • 鈴木水産
  • 高橋果実店
  • 双葉屋(青果)
  • 玉泉堂(おそらく和菓子)

こちらは東光ストア 鷹番町店がオープンした1958年(昭和33年)の8年後、1966年(昭和41年)に学芸大学駅から現Kビルディングまでの間の東口商店街にあった、スーパーと競合しそうな商店です(地図から読み取れる限り)。

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1979年(昭和54年)時点では以下の通りです。

  • 草場果実(のちのボラボラ
  • 八百金
  • 今井園
  • 稲毛屋(精肉)
  • 鈴木水産
  • 八百屋 くだもの(高橋果実店?)
  • フタバヤ果実

入れ替わりがありつつも、数はさほど減っていません。なんならスーパーのピーコックは撤退しています。

ですから、私はどちらかというと、この街の商店/商店街のたくましさを見たくなります。もちろん、こちらにはうかがい知れないところで各商店の苦労はあったでしょうけど。

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さすがに今となっては、ボラボラと今井園くらいになってしまいましたが、これはもう学芸大学がどうこうという話ではないでしょう。多くの街で個人商店は激減しています。そして、スーパーの存在も一因かもしれませんが、それだけではなく、さまざまな要因がからんで、そのような結果になっているんじゃないかとも思います(生活スタイルの変容・跡継ぎ問題・地価の高騰など)。

普段、何の気にも留めずに前を通り過ぎていた商業ビル・Kビルディング。その歴史をたどると、この街の今と昔が見えてきたように感じたのでした。

附録:Kビル・東光ストア鷹番町店のマメ知識

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最後にKビルディングと東光ストア鷹番町店に関するマメ知識をふたつほど。

その1。東光ストア 鷹番町店はいろいろな意味で"1号店"でした。

1958年(昭和33年)12月13日に開設した鷹番町店は新店舗で開設時からセルフサービス方式の導入を行った1号店であるのみならず、部門別に色分けした名刺大の札を商品に添付して、それを基にレジで精算を行う方式で食品売り場にもセルフサービス方式の導入しており、高円寺店での実験をさらに一歩進めるものとなった。ただし、この鷹番町店でも食料品全てをセルフサービス方式とすることはできず、対面販売部分が残る状態となっていた。

(中略)

高円寺店や三軒茶屋店と共に当社の果物販売直営化1号店となった。

引用元/wikipedia:東急ストア

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その2。Kビルディングの2階には大衆食堂 てんぐ大ホール 学芸大学駅前店が入っているのですが、4階には同店の本社・テンアライド株式会社があります。

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