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学芸大学の市場 part4:戦後の闇市・マーケット~三谷マーケットと王長徳・第一マーケット・富永組マーケット・都南共栄百貨街

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戦後の闇市とマーケット

終戦直後の闇市

終戦直後、兵役の復員、外地からの引揚げなどで都市部の人口が増加しました。また、物価統制令下の配給制度は破綻。食料不足・物資不足が深刻となり、餓死者が出るほどでした。

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画像転載元/昭和館デジタルアーカイブ:新橋駅から見た新橋市場の西側部分(東京のヤミ市)

そこで広まったのが闇市です。建物疎開(※)や空襲の焼跡などの空き地に、食品や日用品を非合法に売る人々が集まりました。

※延焼を防ぐため、強制的に住人を立ち退かせ、建物を取り壊して空き地にすること。

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1946年(昭和21年)に撮影された自由が丘駅前の闇市。画像転載元/とうよこ沿線:空襲、敗戦、復興、激動期の自由が丘(インターネットアーカイブ。以下、とうよこ沿線の画像同)

最初は路上や空き地にゴザを敷き、商品を並べていて、その内、板などで簡易に囲うなどして、屋台のようになります。そして廃材などを利用してバラックを建て、商売を始める者も出てきます。

秋葉原、新橋、池袋などには大規模な闇市ができました。闇市跡の繁華街として有名なのは以下の通りです。

  • 思い出横丁(新宿西口)
  • 新宿ゴールデン街(歌舞伎町)
  • 中野サンモール(中野)
  • アメヤ横丁(上野)
  • ハモニカ横丁(吉祥寺)
  • 鶴橋商店街(大阪)

もちろん闇市は非合法です。戦災復興区画整理事業が遂行されつつ、1946年(昭和21年)に露店営業取締規則が制定され、1949年にはGHQが露店撤廃令を発令。また、1949年(昭和24年)から断続的に野菜、水産物、麦と統制が撤廃され、米以外の食品はすべて自由販売となり、露店・闇市は徐々になくなります。

闇市跡のマーケット

1940年代後半から1950年代にかけ、闇市跡や空襲の焼け跡には数階建てのマーケットが建てられることもしばしばでした。駅前に「〇〇ストア」「〇〇マーケット」といった妙に古い低層階のビルがあったりするのも、その名残であることが多いようです(そのマーケットも取り壊され、1960年代、1970年代に新しい商業ビルになっている場合も)。

こちらがわかりやすい例でしょう。

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画像転載元/三井住友トラスト不動産:自由が丘の商業地としての発展

戦前、1935年(昭和10年)頃の銀座会(銀座通り)。左が現在の自由が丘デパートです。通りの両側に商店がずらっと並んでいます。

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1946年(昭和21年)の銀座通り。画像転載元/とうよこ沿線:空襲、敗戦、復興、激動期の自由が丘

終戦直後、ここには被災者の露店が並んでいました。いわゆる闇市です。

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1946年(昭和21年)撮影。画像転載元/とうよこ沿線:空襲、敗戦、復興、激動期の自由が丘

1948年(昭和23年)、自由が丘商栄会マーケットができました。画像の右端に「栄会マーケツト」の文字が見えます。

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1952年(昭和27年)に撮影された自由が丘マーケット。画像転載元/三井住友トラスト不動産:自由が丘の商業地としての発展

自由が丘商栄会マーケットは自由が丘マーケットと名乗るようになりました。上の画像では柱と屋根しかないバラック長屋のようなものだったのが、コンクリート造りの施設になっています。

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1955年(昭和30年)に撮影された自由が丘デパート。画像転載元/とうよこ沿線:昭和30年~34年、成長期の自由が丘

1953年(昭和28年)、自由が丘マーケットの場所に地上2階・地下1階の鉄筋コンクリート造りの自由が丘デパートが建てられました。

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こちらが現在の自由が丘デパートです。

闇市→マーケット→商業施設

という流れがよくわかりますね。

祐天寺と都立大学の闇市・マーケット

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青:疎開区域、赤:戦災焼失区域(終戦までの9ヶ月間で空襲により焼失した区域)。画像転載元/「戦災焼失区域表示 帝都近傍図」(日本地図株式会社/1945年)

次に学芸大学近隣、祐天寺・都立大学の闇市・マーケットを簡単に見てみます。

祐天寺

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画像転載元/とうよこ沿線:終戦直後の祐天寺駅前

祐天寺駅前のロータリーから昭和通り方面にかけて、この広い一画は戦時中、強制疎開させられ広場になっていました。

戦後、この広場にバラックのマーケットや飲み屋が建ち並びました。いわゆる闇市です。

一九四六年(昭和二一年)五月十二日、五本木と道ひとつへだてた下馬の戦災者住宅のあき地で「米よこせ大会」がひらかれた。五本木でひらかれたのではないが苦しみは同じであった。インフレーションと、食糧難はしんこくであった。

"この苦労を子孫には二度とさせまい"

と、人々は固くちかいあった。

やみ市だけがにぎわっていた。

引用元/「五本木の歴史」(山口敏夫)

昭和二十二年頃は戦後の食料難時代で、私の家でも庭を家庭菜園として耕し、(中略)

祐天寺の駅前はロータリーになっておらず、今の富士銀行(※現在のみずほ銀行)のあたりにやみ市が並び、食料品を販売しておりました。

引用元/同上

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画像転載元/国土地理院:地理院地図(1956年(昭和31年))

1953年に発行された「新興市場地図」によると、祐天寺駅前に富永組マーケットなるものがあったそうです。5棟・45戸というので、もしこの航空地図に写っているとするなら、四角で囲ったあたりでしょうか。

参考/J-STAGE:「新興市場地図」にみる戦後東京のマーケットの建築的分析(石榑督和・初田 香成)

都立大学

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画像転載元/柿の木坂 西町会ブログ:柿の木坂のルーツを探す旅(3) 都立大学駅から学芸大学駅にかけて

終戦直後、都立大学駅の北口・南口それぞれに闇市のようなものができ、マーケットが形成されていました。

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そしてもうひとつ、目黒通りが拡張される予定の空き地、今の都立大学駅前交差点から柿の木坂交差点にかけてもマーケットができていました。都南共栄百貨街(旧都南共栄マーケット)です。引揚マーケットとも呼ばれていたそう。

おそらく、終戦直後に露店のようなものがたくさんできて闇市が形成され、これらを排除・吸収しながら市場のようなマーケット・都南共栄百貨街になっていったんじゃないでしょうか。

この写真だけでは位置関係がわかりづらいのでイラストにしてみました。

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こんな感じで都南共栄百貨街がドーンとあったとw

看板から読み取れるのは、三友軒(?)、立川商店(乾物系?)、眞中パン、いざわ靴下店、松吉(肉)、べんきょうの店しげたや(食料品・雑穀・乾物)、今井商店(漬物)、みどり園(茶)。松吉は西小山が本店ですか。どこだろ。

1953年に発行された「新興市場地図」によると、都南共栄百貨街には12棟・87戸が入っていたそうです。

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1960年(昭和35年)頃。画像転載元/失念
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1960年(昭和35年)頃。画像転載元/失念

串カツ田中 都立大店の裏手あたりから三井住友銀行 都立大学駅前支店方面を写しています。目黒通りが敷設される場所にはマーケット(都南共栄百貨街の一部?)があります。下の写真の右中央をよく見ると、都南共栄百貨街の背後のマーケットの形(上イメージ図参照)がなんとなくわかります。

都南共栄百貨街は1961年(昭和36年)に撤去され、各店舗は東横線の高架下に移されました。

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画像転載元/国土地理院:地理院地図(1948年(昭和23年))

都南共栄百貨街がいつからあったかはわかりませんが、いつだったにせよ、ここに目黒通りが敷設されることは、当人たちも都も区もわかっていたはず。ですから、商店側はいずれ出て行くことをわかった上で、確信犯的に道路を占拠していたのでしょう。都・区もそれまではと大目に見ていたのではないでしょうか(都や区が露店や闇市を減らすため、時限的に積極的に商店主たちをまとめていた可能性もあり)。

ちなみに線路沿いにある名店会館も似ています。そもそもは闇市?マーケット?の商店をここに移したものでした。

追記。「目黒区全住宅案内地図帳 昭和33年」(1958年)によると、呑川以西は都南共栄会百貨店、呑川以東は都立共栄会となっています。呑川を挟んで組織が違っていたかもしれません。また、都南共栄"会"百貨店となっているのも気になります。そして、都立共栄会は都立共栄会百貨街を略しているのかもしれません。

不明点は多々あるのですが、主旨は変わらないので、とりあえずわかる時が来るまで放っておきますw

学芸大学の闇市・マーケット

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いよいよ当シリーズの本題、学芸大学の闇市・マーケットです。前段が長すぎるだろw

学芸大学には三谷マーケット(三谷商店街)、第一マーケットという闇市・マーケットがありました。以下、特に三谷マーケットに関しては「闇市の帝王 王長徳と封印された「戦後」」(七尾和晃/草思社)を参考にしています。特段、ソースが記されてない引用はすべて同書からです。

注意点をひとつ。

ここまで闇市・マーケットという言葉を曖昧に使ってきました。けど、両者は視点の異なる言葉です。

マーケットは複数の店舗が収容されている商業施設、すなわち"形"を見た言葉です。

闇市は価格統制が敷かれている時代に統制外の値段で販売したり、販売が許されていないものを販売したり(配給品の横流し、米軍の払い下げ品の転売)、そんな商人たちが集まっていたエリア、すなわち"内容"を見た言葉です。

ですから、闇市だったマーケットというものもありえます。終戦直後、1940年代のマーケットはほぼほぼ闇市だったでしょうね。こんな時期にみんなルールを守って真面目に商売♪なんてことはありえませんw

三谷マーケットと王長徳

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バス通りと駒沢通りの交差点、三角地帯(以下、三谷三角地帯)にシャンボール学芸大学という大きな茶色いマンションが建っています(1979年11月築)。串カツ田中 学芸大店のはす向かいです。

ここに三谷マーケットというマーケットがありました。三谷マーケットを作ったのは、新橋・銀座・渋谷・荻窪・自由が丘でも終戦直後にマーケットを作った"東京租界の帝王"・王長徳(おうちょうとく/1925年11月11日~?)。

話を進める前に、まずは三谷三角地帯の航空写真を連続して見てみましょう。

三谷三角地帯の航空写真

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1936年6月11日。雑木林のような空き地です。縦長の土地の真ん中に駒沢通りが敷設され、土地が分断されています。学芸大学駅前交差点より以西の駒沢通りはまだ未整備です。

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1944年11月4日。終戦直前。白い屋根の建物がいくつか建っています。なんでしょう。戦中の闇市的なものか何なのか……。

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1947年12月20日。この一帯は空襲の被害にあいました。ただ、終戦から2年半経っています。単なる焼け跡の空き地ではなく、こまごまと小さくて粗野な建造物が建っているようにも見えます。闇市でもあったのでしょうか。

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1948年3月3日。白い屋根の建物がいくつか建っています。その北側、駒沢通り沿いのエリアも、何かが規則正しく並んでいるように見えます(黒い縞模様に見える部分)。詳しくは後述しますが、まさにこれが三谷マーケットの始まりです。

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1948年3月29日。上の画像から1ヶ月と経たず、三谷三角地帯は9棟(or10棟)の長屋で埋まりました。三谷マーケットの完成と見ていいでしょう。

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1956年3月10日。白っぽい屋根でつながった長屋ではなくなりました。小さな建物がたくさん密集しているように見えます。

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1963年6月26日。まだ建物が密集していて、この状態は少なくとも1966年まで続いていました。

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1971年4月25日。左の約80%が空き地になっていて、駐車場のごとく車が停まっています。1960年代後半から1970年ごろにかけて、三谷三角地帯からの立ち退きが命じられた?

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1975年1月4日。ほぼすべての退去が完了し、建物も9割ほどが解体されているように見えます。この4年後にシャンボール学芸大学が竣工します。

三谷マーケットの様子

三谷マーケットは、新橋の国際マーケットに少し遅れて、一九四七年から一九四八年にできあがった。

「闇市の帝王」にはそう書かれています。上の航空写真の通り、三谷マーケットができあがったのは1948年3月と見ていいでしょう。

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画像左端の電柱のあたりに学芸インテリアがあった。現在は中央町、セントラルはす向かい

続けて、幼い頃、三谷マーケットに住んでいたこともあり、三谷三角地帯の目の前(現FOOD&COMPANYの隣)に事務所を構えていた有限会社学芸インテリアの代表・小熊章氏は次のようにインタビューに答えています。

「一軒あたりの間口は一・五間(※一間=約1.8m。畳の長辺が一間)で、奥行きが二間くらいだったかな。マーケットはバンガローの長屋みたいでね。二階があるといっても、いまでいうロフトみたいなもので、屋根裏みたいなものだった。なにしろ、道路のある外に梯子をかけて二階に上がっていたんだから」

(中略)

「水道もトイレもなし。だから、炊事も洗濯もみんな、マーケットの住人が同じ場所でやっていた。(中略)昭和三十年代に入って、みなお金が貯まると出て行って、店も歯抜けになっていた。昭和四十二、三年ごろには、三分の一が空き家になっていて、順番に取り壊していったな。栄えていたのは昭和三十年ぐらいまでだよ。当時は周辺には店はなかったしね。みんなマーケットに買いにきたから。業種は生鮮食品から洋裁屋から、とにかくいろんな業種が混じってた」

(中略)

「店はどれくらいあったかな。全部で百五十から二百ぐらいはあったかもしれないな」

「新興市場地図」によると、三谷マーケット(同地図内では三谷商店街)には1953年当時、9棟・113戸あったそう。航空写真に写っていた棟数、小熊氏の証言とほぼ一致します。

興味深いのは小熊氏が三谷マーケットに関して「昭和四十二、三年ごろには、三分の一が空き家になっていて、(中略)栄えていたのは昭和三十年ぐらい」と振り返っている箇所です。

航空写真では1956年(昭和31年)にはもう長屋風情ではありませんでした。各建物が独立しているように見えます。けど、その頃も、いや、すべての住人が退去する1960年代末から1970年ごろも、まだ一帯を三谷マーケットと呼んでいたのかもしれません。

以下、長い屋根でつながっていた長屋時代の三谷マーケットを初期三谷マーケット、おそらくは1950年代に入り長屋風ではなくなった三谷マーケットを後期三谷マーケットと呼ぶことにします。

初期三谷マーケットに入っていた店はまったくわかりません。1958年当時、後期三谷マーケットにあった店は次の通りです。

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画像転載元/目黒区全住宅案内地図帳 昭和33年
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画像転載元/同上

食品関連のお店は少なく感じます。どちらかというと飲食店が多いように見えます。一般的に、当初は食品関連が多くても、そのうち飲食店が多くなるというのは、こういう類のマーケットではよくあることだそう。三谷マーケットももしかしたらそうだったかもしれません。

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三谷三角地帯は半分ほどしか写ってませんが、1973年(昭和48年)、私が生まれた年の住宅地図です。小熊氏は「昭和四十二、三年ごろには、三分の一が空き家」と言っていましたが、ほとんど埋まっているように見えます。

バーが激増しているのが面白い。バス通り沿いのペットバーって何だ?w

極めつけはこちら。

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胡蝶です。胡蝶は後期三谷マーケットで小料理屋として創業しました。ただ……。

三谷マーケットでは、のちに王が店子と大きくもめ、裁判沙汰に発展した。

「家賃をどんどんどんどん値上げしていって、やっていけないから、店子同士で家賃を供託にしてね。とんでもなかったよ」(※小熊氏)

胡蝶もその煽りを受けたのか、あるいは立ち退きにあったのか、すぐそこの駒沢通り沿い、現在のやとんあたりへ移転します。そして2000年前後に現在地へ移転してスナックになりました。

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1994年の住宅地図です。胡蝶、愛、とり福、乃が美寿司、スナック蘭(?)、リーベ(飲食店?)。

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随分前に三谷マーケットはなくなりましたが、すぐ隣の区画には飲食店が集まり続け、1990年代になってなお、この区画は三谷マーケットの残り香を漂わせていました。

王長徳と三谷マーケットができた経緯

1925年11月11日、中国湖南省新化県西郷という小さな村で生まれた王長徳。2歳の時に日本の統治下にあった北朝鮮の端川に移り、日本語教育を受けます(受けさせられた)。

その後、いろいろあって軍隊に所属。終戦後、1946年6月19日、中華民国政府の占領軍の一員として、王長徳は博多に上陸します。

王長徳が莫大な金をどのように手に入れたのかは「闇市の帝王」の中でも謎とされています。終戦時、蓄えていた中国政府の法幣を紙くず同然だった日本円に変えたとか、新円切り替えによって莫大な資産を手に入れたとか……。

いずれにせよ、莫大な現金、戦勝国という有利な立場、達者な日本語を駆使して、所有者が不明だったことも多い、闇市の広がる一等地をどんどん取得していきます。そしてそこにマーケットを築いていくのでした。

そのひとつが新橋駅前の国際マーケット。SL広場のある側、西口はヤクザの松田組が抑えていたので、東口にあった約4000坪の土地を三井信託銀行(当時)から購入します。

「当時、新円ならばいくらでも使えるけれど、旧円は新円に切り替えなさいという命令が出ていた。そうすると、一月に少しずつしか引き出せないから、貯金からは。だからカネさえあれば、即、話がまとまっちゃったわけ。(中略)」

「土地を売ってくれと言って、ごねるのはいないですよ。あのころは三井信託銀行に話をすれば、全部まとめてくれた。営業部長をしていたのは碑文谷に住んでいた人で、中国人もよく知ってる人だったんですよ」

「向こうが買い手を探しているんだから。日本の人は土地よりも、食べるもの、着るものが先だから」

そんな王長徳のもとにはおのずと金・人が集まります。王長徳が渋谷にマーケットを作った際には、渋谷を取り仕切っていた安藤組の安藤昇とも交流を持つようになります。そして、

王のマーケットがあった場所に、五島慶太の東急文化会館が建っていたのは偶然ではない。王によれば、当時、目黒区五本木にあった王の自宅に五島慶太が幾度も訪れ、渋谷の開発を進めようとする五島に土地を売ったのだという。その五島と王を結んだのは、やはり王が戦後、その面倒を見ていたという小島ヒサという女性だった。

東急電鉄の創業者・五島慶太。ちなみにこの小島ヒサは、戦前戦中にかけて後藤新平と"いい仲"だった女性です。後藤新平は公設市場の礎を築いた東京市の市長。

総理大臣を含む政治家ともつながりを持っていた王長徳。詳細は「闇市の帝王」をお読みください。

さて。

あえてサラッと流しましたが、学芸大学界隈に住む方であれば引っ掛かるワードがこれまでたくさん出てきました。

「五本木」に住む王長徳(柿の木坂にも住んでいた)、「碑文谷」に住む「三井信託銀行」の営業部長……。そういえば、ニトリ 目黒通り店ができる前は三井住友信託銀行でした。学芸大学駅前には第一ストアーの隣に三井住友銀行がありますねぇ。まあ、それはいいとして。

新橋・銀座・渋谷・自由が丘はわかりますよ。大都市にマーケットを作れば、そりゃ儲かる。けど、なぜゆえにいきなり学芸大学? こんな田舎にどうして?

以下は想像です。

柿の木坂・五本木に住んでいれば、車で駒沢通りを通ります。三谷三角地帯のことは知っていたのでしょう。そして資金面でサポートしてくれるのが碑文谷に住む三井信託銀行の人間。もちろん、三谷三角地帯のことは知っているでしょう。

1946年当時から東京のどこかの島に国営の賭博場(カジノ)を作って、外貨を落とさせるのが日本にとってはいいことと主張していたような王長徳です。マーケットが儲かると踏んで、次々にマーケットを作り、実際、大成功を収めているわけですから、とてつもない先見の明です。しかも東急の五島慶太とも懇意です。

「まだ何もないけど、ここは絶対にいける」そう睨んで、自宅近くの田舎の三角地帯を取得し、マーケットを作った――という可能性もなきにしもあらず。

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私は、黄色合同会館や三谷マーケット、それに荻窪も自由が丘も渋谷も、王が目をつけ、マーケットを展開した場所は、いずれも道路が交差する角か、あるいはまさしく三角帯のうえに建っていたことを思い出していた。

「三角の場所は道路が交わって、人が集まるから。そういう場所は栄えるんですよ」

三角の土地にマーケットを建てたのが偶然かどうかを尋ねると、王はそう答えた。

王長徳さん、カジノにせよ学芸大学にせよ、あなたの読みは正しかった。けど、あまりに早すぎたw とはいえ、まったく歴史に残っていないけど、あなたのマーケットがこの街の発展に決して小さくはなく寄与していた、私はそう思いますよ。

横井英樹襲撃と王長徳と学芸大学

ホテルニュージャパン火災事件で有名な実業家・横井英樹。巨大ボウリング場・トーヨーボウルを作ろうとするもとん挫し、その計画地がダイエー碑文谷店(現イオンスタイル碑文谷店)になりました。横井英樹がダイエーに建物を貸していたのです。

1958年、そんな横井秀樹は金銭トラブルから襲撃/銃撃されます。実行犯は安藤組組員・千葉一弘。実行犯はもちろん、組長・安藤昇も恐喝罪で指名手配を受けます。その安藤昇らをかくまったということで、王長徳も逮捕されました。かくまった場所は下馬。安藤昇の自宅も下馬。

比較的穏やかに発展してきている学芸大学。けど実は、私たち市民からは見えないところで、闇社会のフィクサーが暗躍していた……私は面白いんですけどねw

まったく資料のない第一マーケット

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学芸大学駅前、現在、第一ストアー(大鷲ビル)が建っているあたりにもマーケットがありました。第一マーケットです。

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こちらはまだ碑文谷駅だった頃の写真です。駅舎の向こう側に商店が並んでいます。こんな町並みだったということを念頭に、まずは住宅地図と航空写真を見てみましょう。と言いますか、資料はそれしかありません。

駅前の住宅地図と航空写真

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画像転載元/目黒区全住宅案内地図帳 昭和33年

1958年(昭和33年)の住宅地図です。

表には昔ながらの商店が並んでいて、その背後にL字の第一マーケットがありました。そして、現三井住友銀行の場所から現魚謙のほうへ向かって線路沿いに第一マーケットが延びています。

1953年の「新興市場地図」によると、第一マーケットには12棟・89戸が入っていたそう。何気に規模が大きいです。また、「旧商栄会第一マーケット」とも書かれています。商栄会といえば学芸大学公園通り商栄会。終戦直後は商栄会に属していたけど、その後、独立したとか?

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1978年(昭和48年)の住宅地図です。ふたつは同じ地図です。

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駅前は第一ストアーになりました。第一マーケット時代に表にあった商店も吸収されています。隣は三井銀行になっているのですが、その少し先、魚謙の前の角ビルの場所にポツンと第一マーケットの残骸が。

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左は1936年6月11日、右は1944年11月4日の航空写真です。駅前には普通に商店が並んでいるだけです。線路沿いで建物疎開があったとも記録されているのですが、そんな様子もありません。

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1947年9月8日の航空写真です。確かに長屋のようなマーケットが形成されています。

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1948年3月8日の航空写真です。L字がくっきりとしました。ただ、さらに拡大して見てみると、L字のマーケットに表の建物がめり込んでいます。建物の裏の壁面をマーケットも壁として利用していたのでしょうねw

面白いのが魚謙前。細い筋をマーケットの屋根が渡っています。

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つまり、こういう状態だったと。こんなにしっかりとした壁で仕切られていたかどうかはさて置き。

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1956年3月10日の航空写真です。長い屋根はなくなりました。ただ、上の1958年の住宅地図は依然として第一マーケットとなっています。まだ消滅はしていないけど、解体されゆくマーケットがここにあったのかもしれません。三谷マーケットもまったく同じでしたしね。時期も。

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1963年6月26日の航空写真です。第一ストアーは2年前に竣工しました。マーケットの跡地に三井銀行。南端にはマーケットが生き延びていました。

第一マーケットは何だったのか

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表の商店はそのまま残っていて、その裏手にL字の第一マーケット。ちょうどL字に空襲で燃えたのでしょうか。何だったのか。

福やせんべい、トラヤ玩具、安藤デンキ(安藤電器)、評判堂時計、河倉肉店、吉住菓子店、第一不動産が表にあった商店です。これらのほとんどが第一ストアーに入りました。

駅前の自分のお店を潰して、新たに建てようとしている商業ビルに入るというのは、全員が最初から納得できていたとは思えません。それなりに時間をかけ説得して、第一ストアーが建ったんでしょうね。

そして、このように土地をまとめるのは労力的にも資金的にも大変なことです。果たして誰が中心となって……おっと、マーケット跡に三井銀行ができてるのか。

第一ストアーの店主の証言

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もしかしたら闇市があったかもしれません。少なくとも89戸も入っているマーケットはありました。それがなくなり、隣接した商店も巻き込み、第一ストアーができました。

そんな第一ストアーに入っている某店の店主(70代)に話を聞いたことがあります。

その方は父親の代からそこで商売をしているのですが、こんなことを言っていました。

「ここで商売をやる"権利"というのがあって、古い店はそれぞれ持ってる。だから、全員の意見がまとまらないと、ここは取り壊せないんだよ」

その"権利"が具体的に何なのかはわかりません。また、仮にそういうものがあったとして、法的効力が果たしてどこまであるのかもわかりません。そもそもこの話自体の真偽も定かではありません。

ただ、第一ストアーができるまでの経緯を(推測交じりで)見てみるに、70年前はそういうもので土地を、人をまとめ上げようとしていたというのも、あながちない話ではないと感じます。貴重な話をうかがえたなぁと。

学芸大学には歴史がない

祐天寺・五本木・清水・碑文谷に関する歴史的資料はあるのですが、学芸大学駅付近の(公にされている)歴史的資料はほぼありません。

何もなかった場所に駅ができ、急激に人が増え、街が発展していったので、歴史を紡ぐ人がいないんですよね。というか、そもそも人自体がいなかった。

つまり、学芸大学には歴史がない。

このシリーズをすべて読んだ方も思いませんでした? なんだかんだ、他の街のことが多くて、学芸大学のことって少ないな、と。

いや、まじそうなんです。何もないんです。

と言いつつ、ごくごく小さなかけらは時折、断片的に見つかります。ですから、自分用のメモとしてまとめてみた、というのが今シリーズの第一義です。

好きで勝手にやってるだけではあるのですが、ついでに同じように面白いなぁと思う奇特な人がいるなら、それはそれでねw

※当記事の内容に関して、何か情報をお持ちの方は、ぜひご連絡ください。

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