- 学芸大学の市場 part1:目黒の公設市場
~下目黒市場・目黒市場/清水市場 - 学芸大学の市場 part2:戦前の私設市場
~祐天寺市場・五本木市場・碑文谷市場 - 学芸大学の市場 part3:戦後の市場・マーケット
- 学芸大学の市場 part4:戦後の闇市
~三谷マーケットと王長徳
戦前の私設市場
前回は学芸大学駅界隈の公設市場(下目黒市場・目黒市場/清水市場)を見てみました。今回は私設市場です。
商人や町の有力者などが開設していた市場=私設市場はずっと昔からあったのですが、増えだしたのは1919年(大正8年)、公設市場が開設され始めてからです。
東京府・東京市による公設市場が開設されると、これに倣うかのように民間でも市場を開設する者が増えました。公設市場・下目黒市場があった大正末期、公設市場は界隈(当時の目黒村)にこの1ヶ所だけだったのですが、私設市場は28ヶ所あったと言われています。
また、こんな記述もあります。
現在東京市内には市設小売市場が十一箇所ありますが、この他東京府市場協会の経営するものが三十五市場、それに所謂私設市場が五百程あります。(中略)現在市設市場は旧市内だけに在るのでありますが、寧ろ消費的生活の多く営まれてゐる沢山な私設市場に対しても是非なんらかの統制が考へられねばなりません。
引用元/公益財団法人後藤・安田記念東京都市研究所:「都市問題パンフレット No29 東京市政の現状」(財団法人東京市政調査会/昭和12年3月3日発行)
私設市場とはどのようなものだったか
その後、昭和恐慌期以降には、失業者の中で小売商に転ずるものが相次ぎ、このような新規開業者の受皿として、東京市内では私設小売市場が続々と開設され、既存市場との間での対立が激化した。このような不況下における小売業への大量の新規参入と私設小売市場の激増は、公設市場にとっては明らかに逆風であった。
引用元/J-STAGE:「社会経済史学」(社会経済史学会/2006年)より「両大戦間期の東京市における公設市場政策」(廣田誠)
一ヶ所でいろいろなものが揃うという利便性を武器に儲けよう。複数事業者が一緒になって公設市場に対抗しよう。そんな意図から市場を設けることが多かったようです。
と言いつつ、単純に個人商店vs私設市場vs公設市場という構図だったかというとそうとも限りません。
民業を圧迫する公設市場に対し、個人商店と私設市場が一緒になって対抗することもありましたし、公設市場と同様に個人商店から疎まれていた私設市場もありました。逆に公設市場と連携した私設市場もありました(東京府や東京市と関係が良好な私設市場もあった)。
さて、当時は取り扱い品目や価格に統制が敷かれていました。
1917年(大正06年) 暴利取締令
1921年(大正10年) 米穀法
1933年(昭和08年) 米穀統制法
1938年(昭和13年) 物品販売価格取締規則
1939年(昭和14年) 米穀配給統制法
1939年(昭和14年) 価格等統制令
1946年(昭和21年) 物価統制令
このように価格統制が採られる中で作られた私設市場ですから、統制をすり抜けた物を売ったり、統制から外れた価格で売ったりしていたことも多かったようです。もちろん当局の監査が入り、注意を受けたり、あるいは商売を辞めさせられたりすることもあったそうです。
ただ、あまり強く出すぎても反発が怖いですから(選挙の票も絡んでる)、なんとなくうまくやっていこうや、こっちもあまり強く言いたくないしさ、というのが当局側の本音だったとも言われています。
扱っていたものは野菜・果物が中心で、米穀、鮮魚、肉類、卵、茶、菓子、調味料などなど。また、食料品だけではなく服や履物、荒物、陶磁器、薪炭なども扱っていたようです。
大正末期から昭和初期の様子
1923年(大正12年)、関東大震災。1927年(昭和2年)、碑文谷駅開業。1930年(昭和5年)、昭和恐慌。1936年(昭和11年)、目黒区役所が中央町に移転・清水に目黒市場設立。ざっくりと、こんな時代でした。
さて、当時の私設市場に関しては資料がほとんどありません。ですから、昭和初期の市場と言われてもピンと来ません。そこで、学芸大学の私設市場を見ていく前に、当時がどんな雰囲気だったかを写真で見てみたいと思います。
こちらは1924年(大正13年)、五本木2丁目の五本木通りの様子。田切公園交差点、まいばすけっと 祐天寺駅西店あたりから南に向いて撮られた写真です。竹林、雑木林、畑の中にポツポツと家が建っていました。
この年はちょうど下目黒市場が開設された年です。前年には関東大震災がありました。3年後に碑文谷駅が開業します。
1925年(大正14年)、碑文谷6丁目にあったポンプ汲みあげ式の洗い場。こうして採れた野菜類も市場へ運ばれていたのでしょうか。
ちなみに、この洗い場というのがひじょーーーに重要なものなのですが、主旨から離れるので掘り下げるのはやめておきます。私が井戸好きというのもまったく関係のない話なので、これ以上は広げません。
こちらは1926年(昭和元年)。二子道と言われていた現目黒通りです。
このあたりは切通しになっていて、目黒通りの北側エリアは殿山、南側のすずめのお宿方面に向かっては安藤山とも呼ばれていました。
現在のほぼ同じ地点。碑文谷警察署があるあたりを歩道橋から見下ろしています(碑文谷警察署が設置されたのは1938年)。
100年で技術的な進歩は当然あるわけですが、地形も随分と変わりますね。
転載元・年代不明ですが、青山師範駅です。ということは、1936年(昭和11年)~1943年(昭和18年)の間。この後、第一師範駅(1943年~)、学芸大学駅(1952年~)となります。学芸大学駅初期の頃までは、おおよそこんな雰囲気の駅でした。
こちらは1938年(昭和13年)。五本木通りを行進する五本木小学校の鼓笛隊です。この翌年、第二次世界大戦が勃発します。
これは小樽市です(大正末期~昭和初期)。商店と言っても、ちゃんとした建物ではなく、このようなほったて小屋であったことも多かったようです。
1968年(昭和43年)の南小樽市場です。大きな施設に商店がたくさん入っている、そんなちゃんとした私設市場ばかりではありません(都市部や市場が発達していた大阪・京都には多かったかも?)。このような長屋風のバラックに何軒かの商店が寄り集まっていた、そんな程度でも市場と呼ばれていました。
どんな時代だったか、そして当時の市場がどんなものだったか、なんとなくイメージが沸いたでしょうか。
学芸大学界隈の戦前の私設市場
戦前・戦中、学芸大学界隈(当時は碑文谷駅/青山師範駅)には以下のような私設と思われる市場がありました。
- 祐天寺市場
- 五本木市場
- 碑文谷市場
- 鷹番市場(※)
- 唐ヶ崎市場(※)
- 油面市場(※)
- 萬菱百貨店
鷹番市場・唐ヶ崎市場・油面市場は筆者が便宜的に命名しました。そのほかは昔の資料・地図などに名称が掲載されています。
すべて現存していません。第二次世界大戦終戦時にはほとんどがなくなっていたと思われます。
祐天寺市場
スーパー三和より少し西に行くと、駒沢通りから斜めに昭和通りへと入っていく筋があります。この筋と昭和通りが交わる地点に祐天寺市場がありました。以下すべての市場がそうなんですが、当時、市場があったような気配は一切ありません。
ある日、この地点を撮りに行くと、おばあちゃん(車椅子の方)がいらっしゃったので、話を聞いてみました。要約するとこうです。
市場があったのは戦前。私がここに来た頃にはもう市場はやってなかった。私は最初、ここの長屋に住んでた(※偶然すぎるでしょw 市場がなくなったあと、長屋になっていたそう)。市場は戦火を免れた。だから入ってた人たちが土地を細かく割って住むようになった。市場を知ってるような年代の人はもうみんな亡くなってると思う。
おばあちゃん、貴重なお話ありがとうございました。
五本木市場
五本木交差点、アミーチとエイムズの間、まるやま歯科クリニックのあるビル・グレース五本木あたりに五本木市場がありました。
一度だけ「五本木に市場があった」という話を聞いたことがあります。誰だったかは忘れてしまいました。飲食店の店主だったような……。源平ママ(故)、からかさママ、かっぱママ、しまケンさん……違うかぁ。誰だったかなぁ。
どなたにせよ70歳~90歳くらいなので、直接ご存じというわけではなく、その方も誰かから聞いていた話だと思います。
余談。上のカラーの地図中にも載っていますが、現在、AWORKSのあるあたり(目黒区児童発達支援センターすくすくのびのび園)に遊楽園釣堀という釣り堀がありました。目黒(目黒園)にも武蔵小山(小山園釣堀)にもありました。当時の人にとっては釣り堀で釣りをするというのが大きな娯楽だったんですねぇ(娯楽+食料調達という意味も食料不足の時代にはあったそう)。
碑文谷市場
ミナミ学芸大学ビルの場所に碑文谷市場がありました。
碑文谷市場という名称が面白いですね。できた当時の住所はおそらく東京府 荏原郡 碑衾町 大字碑文谷 三谷。まだ碑文谷駅だった頃ですし、碑文谷市場でおかしくはありません。ただ、次に見る鷹番市場も大字碑文谷ですし、碑文谷駅近くです。
どちらも碑文谷市場と言えるはずなのに、ミナミの市場が碑文谷市場と呼ばれていました。
ということは、考えられるのは、
(1)碑文谷市場のほうが先にできたから"碑文谷"とつけちゃった
(2)鷹番市場は地名+市場という名前ではなかった
(3)鷹番市場は小さく、碑文谷市場はそれなりに大きい。だから大きいほうに、大きな名前である"碑文谷"を与えた
とか?
あくまで私設の市場ですし、資料はまったく残っていないので、どういうことなのかは想像に頼るしかありません。ですが、碑文谷市場という名称で、この市場の規模感がうかがい知れるような気もします。
もうひとつ面白いのが、碑文谷市場の前に品川用水が流れていたということです。この画像は武蔵小山、後地交差点付近で、品川用水を埋めている(or蓋をしている)ところです。場所・時期は違えど、店の前に品川用水というシチュエーションは同じ。碑文谷市場=ミナミ前もこんな感じだったのでしょうか。
鷹番市場
学芸大学駅東口商店街沿い、キッチンオリジン 学芸大学駅前店が入っているT&Tビルのあたりに鷹番市場がありました。先述の通り、正確な市場名はわかりません。
1931年(昭和6年)の地図には載っていませんが、1933年(昭和8年)の地図には載っています。ですから、この間にできたのではないかと推察されます。いずれにせよ、かなり小規模な市場だったのではないでしょうか。
こちらは1936年(昭和11年)の航空写真です。〇で囲った部分にもしかしたら五本木市場・碑文谷市場・鷹番市場があるかもしれません。ただ、建物らしきものがはっきり見て取れるのは鷹番市場の場所だけです。
唐ヶ崎市場
中央中通り沿い、スーパーつかさの先、東芳工業の茶色いビルあたりに唐ヶ崎市場がありました。正式名は不明で、当時の住所から唐ヶ崎市場としました。
こちらは1936年(昭和11年)の航空写真です。ですから、おそらく唐ヶ崎市場、油面市場、萬菱百貨店はもうありません。5年ほど前にはなくなっていたはず。もし仮にあったとしたら、それぞれ〇印のあたりにありました。
1936年はちょうど目黒区役所、目黒市場(清水市場)ができた年です。田畑が宅地化されていく様子や目黒通りが整備されていく様子もよくわかります。つまり人口が激増しているということでもあります。
油面市場
油面地蔵通り商店街から一本入る、クニマコーヒーの筋の住宅街に油面市場がありました。だいたいこのあたりだと思います。
「こんな住宅街に!」と思ってしまいそうですが、油面通りはまだ田畑の真ん中を通っているだけの道で、こちらの筋のほうが目黒通りや油面地蔵通りの中心部に近く、商業的には発展していました。ですから、ここに市場があっても不思議ではないと感じます。
ちなみに、ここを左に入っていくと油面市場があったわけですが、ここには油面子育地蔵尊(高地蔵)があります。
もともと油面地蔵は油面交番近くにあったのですが、1934年(昭和9年)、目黒通りの拡張に伴い、ここへ移設されました。
その当時の街の中心部に地蔵を移設。左へ折れても商店がずらっと並び、その先には少し前まで市場があった……なんて光景を想像すると楽しくないですか?w
ああ、この筋には札場一族の氷屋もありましたね。市場もさることながら、氷屋も地図に掲載されていた重要施設です。それらがギュッと集まっていた、すなわちそれだけこの地域が商業的にも栄えていたということです。
萬菱百貨店
目黒通り沿い、御門屋隣(2024年2月まではジオグラフィカ)に萬菱百貨店がありました。
百貨店というと三越や高島屋を思い出すかもしれません。ただ、当時はジャンルを問わず、複数の店舗が入った施設を百貨店と呼ぶこともよくありました。次パートで触れますが、西小山にあった中央百貨店(1952年~2016年)というマーケットのことは、ご存じの方も多いことでしょう。
萬菱百貨店は1933年(昭和8年)の大東京市目黒区全図でしか確認できません。1930年(昭和5年)の東京府荏原郡目黒町全図は、ちょうど萬菱百貨店の場所が破けてしまって、よくわかりません。萬菱百貨店の存在を知られたくない誰かが破いたか!? ウソウソw
1935年(昭和10年)の目黒区全図には「小ヤ(=小屋)」と記載されています。これが萬菱百貨店だった可能性もあります。服、履物、食品などを扱っていたのでしょうか。
懲りずに余談ですが、萬菱百貨店の隣、現在、御門屋の場所は「玉突」となっています。こんなに大きなビリヤード場があったんですね。ちなみに御門屋は1952年、油面地蔵通りで創業しました。目黒通りの本店は2002年からです。
武蔵小山・西小山・目黒の私設市場
簡単に学芸大学近隣地域の私設市場も見てみましょう。
学芸大学近隣地域の古地図に載っている私設市場は以下の通りです。
(1)牛豚もつ専門店 みやこ屋付近
(2)じらい屋付近
(3)パルム商店街、ケンタッキーはす向かいの角
(4)栄通り(説明しづらいので地図参照)
(5)平和通り、豚太郎のはす向かい付近
(6)目黒本町五丁目交差点、福のから隣のクロネコ付近
(7)平和通り、月光泉の前、現鈴木精米店付近
(8)家庭料理 か子のはす向かい付近
(9)食堂ボンクルール裏手付近
(10)立会道路、目黒区立東町南児童遊園付近
(11)らーめん村の先の角
(12)リヨン メルシーの前付近
(13)目黒デパート(目黒通り、大鳥神社交差点)
※26号沿い、現どさん子の隣付近と、博水社先の信号のある交差点の角にもありますね。画像を作り直すのが面倒なので上の画像でご確認ください
※目黒デパートだけ正式名です。大正5年ごろにできたとの情報もあります
地図の作成年から市場の開設時期を推察でき、「あっちよりこっちのほうが先にあったんだなぁ」なんてこともわかるのですが、細かいことは略。
とにかく武蔵小山には市場がたくさんありました。公設卸売市場が近くにあったということもありますが、それだけ人口が多かったからでしょう。そして、現在においても武蔵小山は"市場が多い町"の名残を感じさせます。
※学芸大学の歴史を見る上で、この部分がとても重要だと思うのですが、長くなるので詳しくはまた改めて。
ところで。
地図中の荏原館、月光館、富士館(荏原キネマ館が改称?)、帝友館、第一日活館、大鳥館(移転している!)といった映画館の存在や、西小山・第一日活館の隣の二業地という記載、現らーめん村の西小山見番(西小山二業地組合のこと)なども気になりますが、一番上の画像のピンクの丸で囲った部分。「丸高ストア」とあります。これがすごい。
昭和初期の"100円均一ショップ"
〇に高。つまりこれは今の高島屋です。しかも高島屋の"100円均一ショップ"なのです。
1831年、京都烏丸松原で古着・木綿商「たかしまや」として営業開始。1919年、株式会社髙島屋呉服店を設立。まさに公設市場が次々と開設されていく時期です。
1930年、株式会社髙島屋と商号を変更。百貨店事業を拡大していく傍ら、1931年、髙島屋均一ストアをチェーン展開し始めます。これは後に高島屋10銭20銭ストアとなるのですが、10銭・20銭均一のストア、つまり今で言う"100円均一ショップ"です(当時は均一連鎖店と呼ばれていた)。
1938年、髙島屋均一ストアは株式会社丸髙均一店として独立。おそらくこの頃から丸高ストアなどと呼ばれるようになったのでしょう(※)。上図の「丸高ストア」です。
現在の武蔵小山には4フロアのダイソー 武蔵小山駅前店があります。私もたまに行くのですが、大人気店です。100年前から武蔵小山は均一ショップが賑わうような街だったんですね。
※丸高ストアが載っている地図は1931年のものなので、いつから丸高ストアと呼ばれていたのか正確なところは不明です。最初から丸高ストアだった可能性もあります
※その後、いつからかは不明ですが、ここは丸安百貨店となりました
参考/J-STAGE:近代における大都市近郊の消費生活~新中間層世帯を中心に~(近藤智子)
参考/Wikipedia:高島屋
市場でわかるその街の姿
大正末期から昭和初期にかけての私設市場を見てきました。資料もなく、わからないことだらけです。けど、そこにあったという事実だけでも、当時の街の様子、そこに住む人々の暮らしぶりがなんとなく想像できます。
田畑と竹林しかなかった学芸大学という街がどのように歩んできたのか、ほんの少し垣間見えたところで、今パートは終了します。次回は戦後の市場です。
※当記事の内容に関して、何か情報をお持ちの方は、ぜひご連絡ください。