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学芸大学の市場 part1:目黒の公設市場~下目黒市場・ふたつの目黒市場/清水市場

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市場が重要だった時代

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画像転載元/大東京三十五区区分詳図集成-新町名一覧表入-(1931年(昭和16年))

ちょっと想像してみてください。もしあなたの住む地域の人口が10倍になったらどうなるでしょう? いろいろ影響は出るでしょうけど、コンビニやスーパーはえらいことになります。というか、さまざまな物が不足して大パニックになるやもしれません。

これは単なる仮の話ではありません。実際にそんなことがあったのです。だから上の地図、1941年(昭和16年)の地図なのですが、「市」にマルの市場マークが記載されています。

地図に記載するほど重要だった市場――その歴史(学芸大学における)を振り返ります。目黒区史を揺るがす衝撃的な新事実が判明!?w

※細かい図表や画像が多いので、パソコンで読むことをお勧めします。

東京府・東京市の公設市場

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米騒動により焼き打ちされた鈴木商店本店(1918年8月) 画像転載元/wikipedia:鈴木商店

日露戦争(1904年~1905年)、第一次世界大戦(1914年~1918年)なども影響して、都市部に人口が集中するようになりました。結果、食料品を中心とする日用必需品の価格が高騰。庶民の生活難が問題となり始めます。その最たる例が1918年(大正7年)の米騒動です。

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画像転載元/国立国会図書館デジタルコレクション「東京電話番号簿 昭和2年10月1日現在」(東京中央電話局)

この状況に対して東京府・東京市は1918年(大正7年)、公設市場を設置することを決定。各地に公設市場を開設します。1920年(大正9年)、東京府による公設小売市場は70ヶ所ありました。

ただ、個人商店がひっ迫するということで反対運動が起こったり、公設市場に入る資格のない者が勝手に(or有資格者だと偽って)公設市場で商売を始めたり、公設市場内で売られているものの品質が低いことへの不満が噴出したりと、当初は多くの問題を抱えていたそうです。

1939年(昭和14年)、第二次世界大戦が勃発。1940年(昭和15年)からは配給制が敷かれ、公設市場がその役割の一部を担います。1945年(昭和20年)、終戦。戦後から高度経済成長期(1955年~1973年)にかけ、公設市場は庶民の生活を大いに助け、そして賑わっていたと言われています。

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オープン当時と思われるダイエー碑文谷店。画像転載元/ダイエー写真集

ところが、1970年代半ばごろから大型スーパーが急増します。庶民の生活スタイルの変化もあいまって、徐々に公設市場の存在意義が薄れていき、1990年代には東京都内の公設市場はほとんどが閉鎖されたと思われます。

以上は一般的な公設市場の概要です。以下は目黒区、特に学芸大学駅界隈の話です。

情報皆無の下目黒市場

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当シリーズに関連する事項の年表

1923年、関東大震災が発生しました。災禍を逃れるため、都市部から目黒区(当時は目黒町や碑衾村)へとてつもない数の人々が流入してきます。一説には震災前後の10年で荏原地区の人口は10倍になったとも言われています。

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画像転載元/「目黒区史 資料編」

こんなこともあってか、震災の翌年、1924年(大正13年)に下目黒市場が開設されました。

「下目黒市場」という単語は「目黒区史 資料編」(東京都立大学学術研究会編/初版1962年(昭和37年))にのみ見られます。他に情報は一切ありません(私が見つけられていない)。

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画像転載元/目黒区立図書館:荏原郡目黒村全図(明治44年)
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住所は下目黒六七。下目黒市場が開設される2年前、1922年(大正11年)に荏原郡目黒村が荏原郡目黒町になっています。字を略さずに書くと、荏原郡目黒町下目黒字上耕地六七ということでしょう。現在の日出学園の北西部あたりです。

※上画像は目黒村の地図ですが、目黒町になっても字上耕地界隈の番地に変容はほとんどありません。なお、67の左の75があとで出てきます。

画像転載元/国立国会図書館デジタルコレクション「公設市場設計圖及説明」

こちらは大正11年に発行された内務省社会局による「公設市場設計図及説明」。「公設市場はこのような仕様で建てなさい」というガイドラインです。これはあくまでも一例ですし、すべての公設市場が100%この通りに作られたわけでもないのですが、当時の公設市場はざっくりこんな雰囲気だったとイメージできるんじゃないでしょうか。下目黒市場はもっと簡素なものだったと思いますが(上記リンク先に他パターンの設計図もあります)。

下目黒市場がいつまであったかは不明です。ただ、当時の電話帳「東京電話番号簿」(1926年(大正15年)5月1日現在)には他の公設市場がすべて載っていますが、下目黒市場は載っていません。ですから、1926年5月1日までに閉鎖されたと思われます。

ちなみに、たった2年しか存在していなかったとしても、珍しいことではありません。当時は市場の運営も不安定だったので、できてすぐ閉鎖される市場もたくさんありました。

下目黒の目黒市場

「東京電話番号簿」(1927年(昭和2年)10月1日現在)にも目黒界隈の公設市場は載っていません。

そして「東京電話番号簿」(1929年(昭和4年)10月1日現在)に目黒市場が登場します。

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画像転載元/中央区立図書館:電話帳簿

目黒市場・・・高輪44-8241 荏、下目黒

「高輪44-8241」は電話番号で、「荏、下目黒」は住所。下目黒(当時)のどのあたりかは不明です。

いずれにせよ、電話帳の掲載有無から推察すると、1927年10月1日から1929年10月1日の間に開設されたと思われます。

さて、「東京電話番号簿」(1934年(昭和9年)現在)には次のように記載されています。

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画像転載元/中央区立図書館:電話帳簿

目黒市場・・・高輪44-8241 目、下目黒、一ノ七五

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日出女学校の左にあるのが公設の目黒市場。画像下部にある市場マークは私設と思われる不動市場。画像転載元/東京府荏原郡目黒町全図(1930年(昭和5年))
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画像転載元/目黒区全図(1935年(昭和10年))

1932年に目黒区が誕生しているので、同じ場所ですが上の画像は荏原郡目黒町下目黒字上耕地七五、下の画像は目黒区下目黒一丁目75です。

下目黒市場は67でした。道路ができて切り取られ75だけになったか、あるいは75に"移転"したか……。

当時の下目黒にあった目黒市場がいつまであったかは不明なのですが、ここで非常に面白い記載を見つけました。

下目黒と清水の目黒市場

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正面の黄色い建物が目黒本町福祉工房

1936年(昭和11年)9月28日、東京府による公設市場・目黒市場が設立されました。場所は当時の清水町、現在の目黒本町1。清水交差点、目黒本町福祉工房がある場所です。

ところが。

1939年4月1日の「東京電話番号簿」には目黒市場がふたつあります。

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画像参照元/中央区立図書館:電話帳簿

目黒市場・・・高輪44-8241 目、清水.五八四、一、二
目黒市場・・・荏原08-6913 目、清水.五八四、一、二

電話番号は違うのですが、住所は同じ。片方の電話番号は下目黒にあった目黒市場と同じ番号です。

以下、私の推察です。

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画像転載元/国土地理院:地理院地図(以下の航空写真同)

この画像は清水の目黒市場が開設されたのと同じ年、1936年6月11日に撮影された航空写真です。ピンクの部分に目黒市場(下目黒)はありました。

下目黒にあった目黒市場では手狭になった、もしくは道路の敷設・拡幅に伴い移転することになった。移転先は清水。

ただ、下目黒の目黒市場が閉鎖され市場としての機能は失われても、事務所のようなものはしばらく残っていた。だから電話番号がふたつある。

そう長く事務所を残していたとも思えないので、1934年~1939年4月1日の間の1939年に近い年に下目黒の目黒市場は閉鎖されていた、と。

ということは、短い期間、下目黒と清水の両方に目黒市場があった可能性も、低いとはいえ、まったくないわけではない?

あくまでも私の推察です。

清水の目黒市場

開設当初、戦前の目黒市場

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碑文谷駅。画像右手が現西口方面、左手が現東口方面。画像転載元/wikipedia:学芸大学駅

1927年、碑文谷駅(現学芸大学駅)が開業しました。界隈の人口がさらに増えます。そして1930年、昭和恐慌。失業した人々が小売業へと転身し、その受け皿となる店舗の用意が急務となります。1935年、東京市中央卸売市場開設。まだまだ不十分とはいえ、流通インフラが整いました。

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目黒通りと目黒市場。1952年(昭和27年)3月撮影。この6年後に改築。画像転載元/とうよこ沿線:写真が語る沿線:学芸大学 昭和23年~57年、戦後の復興の歩み(インターネットアーカイブ)

そんな流れから、1936年(昭和11年)9月28日、清水に目黒市場が開設されました。

女性の背後に写っている建物が目黒市場です。改築前(1958年以前)の目黒市場の写真はこれしか見たことがありません。

「東京電話番号簿」(1940年(昭和15年)4月1日現在)には以下のように記載されています。

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画像転載元/中央区立図書館:電話帳簿

目黒市場・・・荏原08-6973 目、清水、五九〇

住所が五八四から五九〇に変わっています。ちょうどこの時期は目黒通りの整備が進んでいる最中でした。道路の拡幅に伴い、若干、場所が移った可能性もあります。

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1936年6月11日に撮影された航空写真です。この3ヶ月後に目黒市場が開設されるわけですが、清水交差点まで目黒通りの拡幅が進んでいることがわかります。

余談ですが、この3年前、1933年(昭和08年)に目黒競馬場は閉鎖されました。競馬場跡地に住宅が建設されていく様子も見て取れます。

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画像転載元/新宿区立新宿歴史博物館

参考までに、こちらは新宿区営の公設市場・四谷見附小売市場です(昭和40年前後)。昔の目黒市場もこんな感じだったのでしょうか。

戦後の清水市場

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上:改築前、1956年3月10日撮影の航空写真。下:改築後、1963年6月26日の航空写真

戦後、目黒市場は区営となりました(東京府営→東京都営→目黒区営)。1958年に改築され、2階に目黒公会堂別館(※)が入り、3・4・5階は貸住宅(27世帯)となっていました。

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画像転載元/「郷土目黒 第4輯」(1960年(昭和35年))

いつの頃からか、目黒市場は清水市場/清水小売市場と呼ばれるようになります。東京都が誕生し都区制になった1943年から終戦の1945年あたり、あるいは目黒市場が改築された1958年ごろから清水市場と呼ばれるようになったのではないかと推測するのですが、ちょっとよくわかりません。

※「目黒区史 資料編」のP1189には清水市場の創設が昭和33年12月10日と記載されています。この日付は改築された日です。目黒市場は改築を機に清水市場と呼ばれるようになった可能性が高い気がします。

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ちなみにこちらは「目黒区全住宅案内地図帳 昭和33年」(1958年)。まさに改築される直前に発行されたものです。ここには「公設目黒市場」とありますが、この後の住宅地図ではすべて清水市場となっています。

※1970年(昭和45年)、目黒公会堂別館は目黒区清水区民館と改称。目黒公会堂別館の正式名称は目黒公会堂清水別館かもしれません。

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画像転載元/「目黒区史」

下目黒市場、目黒市場(下目黒)の情報も皆無なのですが、清水の目黒市場/清水市場に関する情報もほとんどありません。

ただ、「目黒区商工名鑑」(1961年/昭和36年)には目黒区清水小売市場という商店会があったことが記載されています。また、「目黒区商連名簿」(1981年/昭和56年)には清水市場一致会という商店会が載っています。

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画像転載元/「目黒区商連商業名鑑」(目黒区商店街連合会/1986年)

こちらは1986年当時、清水市場一致会に所属していた商店です。鮮魚、青果、精肉、米、惣菜、パン、乾物、酒、生花……幅広く何でもあったんですね。

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樹木の背後に赤い文字で「108」。画像転載元/Google ストリートビュー(2008年7月撮影)

さて、これまた時期不明ですが、清水市場には「108」という愛称のようなものも付けられました。隣は東急バス 目黒営業所。109の隣だから108。読み方は「いちば」でしょうか。

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こちらは1994年の住宅地図です。清水マンション、区立清水社会教育館とありますが、清水市場は載っていません。1990年代には市場とは名ばかりで、形骸化していたのでしょう。ただ、2000年ごろまでは清水市場で買い物をしていたという情報も散見されます。

そんな清水市場も2009年に取り壊され、跡地には目黒本町福祉工房が建てられました。

今回の調査でわかったこと・わからなかったこと

わかったこと

  • 下目黒市場という公設市場があった(1924年(大正13年)開設)
  • 下目黒(当時)に目黒市場があった

これに気付いている人はほとんどいないかも? 果たして目黒区も把握しているのかどうか……。

わからなかったこと

  • 下目黒市場がいつ閉鎖されたか
  • 目黒市場(下目黒)がいつ開設され、いつ閉鎖されたか
  • いつから、そしてなぜ目黒市場は清水市場と呼ばれるようになったか
  • 清水市場内はどのような雰囲気だったか

そしてもうひとつ。

まず基本的なことは区内八〇〇〇の商店をふくむ、二六年(※1951年)の商店街連合会の結成促進である。これと協力して、区は、区営小売市場を設け、商店の売りだしコンクールや、優良商店や店員の表彰・包装紙展示会・店員慰安事業等々を企画した。

引用元/目黒区史(初版1961年(昭和36年))

この区営小売市場は何なのか(清水市場は1936年に開設されているので、これではない)。

さらにもうひとつ。

「目黒区史 資料編」によると、1924年(大正13年)、都市計画により澁谷丸喜市場が上目黒へ移転したとあります。渋谷丸喜市場のこともまったくわかりませんし、大字上目黒(字別所、柳町、氷川、駒場、東山、小川、宿山、烏森、諏訪山、伊勢脇、蛇崩、田切、五本木)のどこへ移転したのかもわかりません。これが公設市場かどうかもわかりません。

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不確かなことを多分に含みながら、目黒の公設市場を振り返ってみました。個人的に興味を惹かれたのでまとめてみただけです。

ただ。

好きになると知りたくなる。
知るともっと好きになる。

私と同じように「なんか面白いなぁ」と思っていただける方が、わずかでもいらっしゃれば幸いです。そして、この街をより好きになる一材料になっていれば、これ以上のことはありません。

※当記事の内容に関して、何か情報をお持ちの方は、ぜひご連絡ください。

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