
目次
- 注意事項
- 主な参考文献・参考資料
- 概要・年表
- ホームのみだった碑文谷駅
- 駅舎が完成した碑文谷駅
- 通路付き駅舎~青山師範駅・第一師範駅・学芸大学駅
- 地下改札となった幻の学芸大学駅
- 高架駅
- 駅の形、街の形
- お願い
この記事では東急東横線 学芸大学駅の変遷を紹介しています。街ではなく「駅」そのもの、駅の構造の移り変わりです。
注意事項
AI(Gemini・ChatGPT)で古いモノクロ写真を鮮明にしたり、カラー化したりしています。AIを通すと、元の形が変わることがあります。また、AIが着色した色と実際の色とは異なります。AIを使った写真に対しては都度、その旨を記載しますが、あくまでも参考程度に見てください。
情報がかなり限られています。ですから、筆者の想像・妄想も多分に含まれています。もちろん、そのような箇所はそうわかるように書きますが、事実なのか推測なのかを注意しつつ、誤りがあるかもしれないということを念頭に置きながらお読みください。
筆者は鉄道に関してはまったくの素人です。鉄道という観点から見て間違っていることや、筆者がわかってない事実がありましたら、ぜひ、ご指摘・ご教授ください。
主な参考文献・参考資料
- 「回想の東京急行1」(荻原二郎・宮田道一・関田克孝/大正出版)
- 「東急の駅 今昔・昭和の面影」(宮田道一/JTBパブリッシング)
- 「東急電鉄記録写真 街と駅80年の情景 ―東横線・池上線・大井町線 80周年記念フォトブック―」(関田克孝/東急エージェンシー)
- 東急100年史(WEB版)
- 東京急行電鉄50年史
- 東京横浜電鉄沿革史
- 東横線100年~『沿線案内』にみるその軌跡~(WEB公開版)※Youtube
具体的に「誰」とは書けないのですが、”関係者”からの証言も少し得ています。その証言も参考にしています。
参考文献著者の略歴
荻原二郎
大正4年~平成24年。昭和18年、東京急行電鉄株式会社入社。
宮田道一
1938年(昭和13年)~2015年(平成27年)。1961年(昭和36年)、東京急行電鉄株式会社入社。
関田克孝
1944年(昭和19年)~。土木構造設計の傍ら、都市計画、鉄道、乗物絵本の資料蒐集と研究を続ける。
概要・年表
東急東横線開業当時の年表
| 1910年 明治43年 | 武蔵電気鉄道設立 |
| 1922年 大正11年 | 目黒蒲田電鉄設立 |
| 1924年 大正13年 | 武蔵電気鉄道が(旧)東京横浜電鉄に改称 |
| 1926年 大正15年 | (旧)東京横浜電鉄が丸子多摩川駅(現・多摩川駅)~神奈川駅間を開業(神奈川線)。目黒蒲田電鉄目蒲線と相互乗り入れし、目黒駅~神奈川駅間直通運転開始 |
| 1927年 昭和02年 | 渋谷駅~丸子多摩川駅間が開業(渋谷線)。渋谷駅~神奈川駅間直通運転開始。路線名を「東横線」とする |
| 1928年 昭和03年 | 神奈川駅~高島駅(後の高島町駅)間が開業 |
| 1932年 昭和07年 | 高島町駅~桜木町駅間が開業(全通) |
| 1939年 昭和14年 | (旧)東京横浜電鉄が目黒蒲田電鉄に合併。合併後、目黒蒲田電鉄が(新)東京横浜電鉄に改称 |
碑文谷駅(現学芸大学駅)は渋谷線開通時、1927年(昭和2年)に開業しました。
余談ですが、大正は大正15年12月25日まで。昭和元年はその12月25日からなので、昭和元年は1週間ほどしかありませんでした。
学芸大学駅の年表
学芸大学駅は碑文谷駅、青山師範駅、第一師範駅、学芸大学駅と改称してきました。
駅の構造・駅舎も時代とともに変わってきたのですが、この記事では大きく4つの時期に分けます。
- 単独駅舎
- 通路付駅舎
- 地下改札
- 高架駅
もう少し詳しく分けるのであれば、単独駅舎の前にホームだけの時代がありました。改札が地下化するのに際しては仮駅舎や仮踏切などが設置されていました。地下改札時代から高架化する際も、上下線でホームが上下に分かれるなど、過渡期的な特殊な駅になっていました。
ホームのみだった碑文谷駅
「東京急行電鉄50年史 12.技術(建設・改良・保守・車両)」にこのような表が載っています。開業時における碑文谷駅の設備に関する唯一の(公開されている)記録です。
この表には鉄道用語と誤字があるので、最初に解説します。
「本家」は「本屋」の誤字です。鉄道において本屋(ほんや/ほんおく)は駅の出札所(切符売場)・改札・待合室・駅務室など、主要施設が入っている中心的な建物を指します。鉄道マニアではない私たち素人は、ざっくり「駅舎」と同義と捉えていいでしょう。
「上家」は「上屋」とも書くらしいですが、これは誤字ではありません。ホームの屋根を指します。
「乗降場」はホームのことです。
さて、この表から碑文谷駅には開業時、乗降場=ホームしかなかったということがわかります。渋谷線開業の前年に開業していた神奈川線においては無人駅だった駅も多数あり、無人駅は珍しいものでもなかったので、もしかしたら碑文谷駅も駅員すらいないホームだけの駅だったかもしれません。
運賃は電車に乗ってから車掌等の乗務員に支払っていたか、あるいは降りた駅で支払っていたのでしょう。
以上の資料を基に、開業時の碑文谷駅をAIに作らせました。これは後出の碑文谷駅の写真をAIに加工させたものです。
一応、AIで屋根付きホームにもしてみました。町並みもちょっと時代を進めています。
ひとつ注意を。
上は1/25000 東京西南部(昭和4年二修・昭和6.6.30発行)、下は一万分一地形図東京近傍六号(昭和5年測図・昭和7年発行)。碑文谷駅が開業した直後の地図なのですが、当時、東西商店街はありませんでした。昭和4年頃はまともな道もほとんどないような状態です(あったのはLittle otto→日高屋→と続く筋や鷹番通りくらい)。線路沿いの道・東口の三角形になってる道(エビス参の筋)は線路・駅ができたあとに作られました。
屋根付きホームのAI生成写真には駅の向こうに商店が並んでいますが、開業時はこれらもなく、特に西口方面は畑や雑木林がほとんどで、あっても古い木造の民家がポツポツとあった程度だったと思います。
駅全体の推移を見るため、簡単なイラストにしてみました。かなり簡略化していますし、正確とは限りません。道路は現在の道路です。
島式ホームなので踏切は道路側とホーム側に必要なのですが、当初はどうだったのでしょうね。開業時には、もしかしたら踏切はまだなかったかも? あるにせよホーム側には踏切はなく、道路側にしか踏切がなかった可能性もあります。

参考までに、こちらをご覧ください。開業当初の柿ノ木坂駅(現・都立大学駅)です。線路の上の橋は目黒通り(となる道)です(つまり、現在の都立大学駅よりもっと北に駅はありました)。
鮮明にするため、AIでカラーにしました。
碑文谷駅と同時、1927年(昭和2年)に開業した柿ノ木坂駅のホームは屋根付きの待合所のようなものがある程度でした。ホームのすぐ先に線路をまたぐ道があるのですが、踏切はありません。周囲にも何もない。碑文谷駅も似たようなものだったんじゃないでしょうか。
ちなみに「東京急行電鉄50年史 12.技術(建設・改良・保守・車両)」にはこのような記述もあります。
2 改 良
私鉄においては,創業当初は営業成績が未定のため信用度が低く,鉄道建設に当たっては事業資金の調達には苦労するのが通例であった。当社においてもこの例に洩れなかった。そこで,創業時の目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄は,建設費を切詰め,開業後,営業成績の向上によって改良していく方針をとった。したがって,改良を見越して不十分な設備で営業開始したために,いわゆる“拙速工事”に起因する改良工事や,沿線の情勢変化に対応する各種の改良工事を行なってきたわけである。戦前の改良工事のおもなものは,①線路変更,②停車場改良,③立体交差などであった。
資金もねぇんだし、とにかく線路を通しちまえ、と。実績出しゃ資金も調達しやすいし、あとからいろいろ改良すりゃいい、と。詳細(国からの許可の期限・競合との路線の取り合い等)は省きますが、スピードも大切だったので、駅舎なんて二の次だったんじゃないかと思います。
駅舎が完成した碑文谷駅
1932年(昭和7年)、開業して5年後の碑文谷駅です。ウィキペディアの「学芸大学駅」にも載っているくらい有名な写真。ホームの北端にくっつけるような形で駅舎が建ちました。
鮮明にするため、AIでカラー化しました。モノクロではよくわからなかったのですが、カラーにしてもらって、着物姿の女性が切符を買っている様子がよくわかります。この駅舎には事務室、出札所(切符売場)、改札があったのでしょう。
ざっくりこんな感じでしょうか。先と同様、踏切がどうなっていたかは不明です。
具体的にいつこの駅舎が建ったかは不明です。ただ、得てしてこういう写真は何か特別な時に撮られがちです。特別な時――駅舎完成時? とするなら、1932年(昭和7年)に駅舎が完成したということになります。
だとしても、開業は1927年(昭和2年)です。5年間ずっとホームだけだったとも考えにくいので、もしかしたら立派なこの駅舎ができる前に、小屋のような木造の簡易な駅舎が建てられていたということもあるかも? このあたりのことはよくわかりません。
なお、先ほどのホームだけのAI生成画像はこのカラー化した写真を基にしています。
最後に、駅は判別できませんが、駅近くの風景です。1943年(昭和18年)に発行された「東京横浜電鉄沿革史」からです。1943年(昭和18年)は第一師範駅に改称された年ですが、キャプションには「碑文谷駅」とあるので、写真自体は碑文谷駅時代に撮られたものかもしれません。ですから、「現時」というのはざっくり1930年代と捉えていいでしょう。
AIでカラー化しました。
これは現在の鮨・肴・酒 杉玉 学芸大学店の前あたりから駅方向を向いて撮影しています。一番右端の建物の場所は現在、ファミリーマート 学芸大学駅西口店。そのすぐ隣の瓦屋根はおそらくやぶそば。その隣の隣の高い建物は名代 富士そば 学芸大学駅前店。
そこから奥は建物の並びの角度が異なります。現在、第一ストアーになっている場所です。茶色い建物は前出の碑文谷駅の駅舎の背後に写っている建物と似てますね。


「東京横浜電鉄沿革史」の写真の撮影時がどうだったかは定かではありませんが、1958年(昭和33年)は手前から第一マーケット(入り口)、福やせんべい、トラヤ玩具、安藤デンキ、評判堂時計、河倉肉店、住吉菓子店(吉住?)、第一不動産と並んでいました。
もし戦前と戦後が同じ商店だったとするなら、あの茶色い建物はトラヤ玩具か安藤デンキか……。
通路付き駅舎~青山師範駅・第一師範駅・学芸大学駅
ここでふたつの資料をご紹介します。
駅は島式ホームで開業し、北側のホームの先端に本屋があったが、乗客増により出札口を道路の北側に新設し、この間を屋根付きとした。踏切には駅構内に車が入らないように柵を設けていた。この構造は大井町線の等々力駅で今でも見ることができる。
急行6両化のため、ホームを延長する用地はこの柵の部分を活用した。同時に本屋を地下化して自由通路とする工事が、昭和39年(1964)6月に完成した。しかし、前述(P44参照)の立体化工事により、昭和45年(1970)現状の高架島式ホームへと変貌した。
「東急の駅 今昔・昭和の面影」より
祐天寺駅構内を出ると、緩やかな上り勾配を300m直線で進み、五本木小学校の先を左へ小さくカーブし、駒沢通りを平面で越えて、約700mで学芸大学駅となる。戦前期において、駅間で家並みが続くのは当駅までであった。
開業時から島式ホーム1面で、ホーム端に駅本屋があった。昭和25(1950)年頃には、改札位置はそのままで、出札口を横断道路の反対側の渋谷寄りに移した。昭和32年には、ホーム上屋をY字型鉄骨の近代的なものとした。さらに、6両編成化を前に、駅本屋、改札業務を地下化する工事に着工、昭和39年6月に完成した。しかし、地下化した駅の営業期間は短かく、2年余りであった。
昭和41年9月着工の中目黒ー都立大学間の連続立体工事に含まれて、島式ホームのまま直上高架化され、昭和45年11月に竣工して現在に至っている。
「東急電鉄記録写真 街と駅80年の情景」より
「昭和25(1950)年頃には、改札位置はそのままで、出札口を横断道路の反対側の渋谷寄りに移した。」
1950年といったら、第一師範駅が学芸大学駅に改称する直前。出札口や駅事務所を線路をまたいだ北側(渋谷寄り)に移し、もともとの本屋と屋根でつなげたのは青山師範駅時代(もしくは碑文谷駅時代)です(詳細後述)。
「地下化した駅の営業期間は短かく、2年余りであった」
ここもまったく腑に落ちません。地下化したのが1964年(昭和39年)。1969年(昭和44年)に下り線が高架化し、上り線が高架化したのは1970年(昭和45年)。ということは、約6年、地下駅が利用されていたということになると思うのですが……。
よくわからないので、このあたりは読み飛ばしてください。
青山師範駅時代~第一師範駅時代
乗客増に伴い出札口を北へ移動し、屋根でつなげた――その部分がこちら。具体的な撮影年代は不明です(1936年以降であることは確か)。
写真撮影時の駅名は青山師範駅ですが、通路化されたのが碑文谷駅時代だったかのか青山師範駅時代だったのかは不明です。
ただ、「乗客増により」とあります。なぜ乗客が増えたか。もちろん時代とともに普通に増えたということもあるのですが、1936年(昭和11年)に東京府青山師範学校(現東京学芸大学)が下馬に移転してきたことも大きいでしょう。
とするなら、通路付きの駅になったのは青山師範駅時代じゃなかろうか、というのが私の推察です。
AIでカラー化しました。
写真の右端にチラッと写っている山型の屋根が前出の碑文谷駅本屋の屋根。踏切を越えた北端に出札所&事務室を作り、その間を屋根でつなぎ、もともとの本屋は改札のみ(&階段)になっていたと思われます。
こちらが図。
そして、次がすごいですよ。
青山師範駅は1943年(昭和18年)に第一師範駅に改称するのですが、第一師範駅時代の写真は見たことがありません。ただ、映像では残っています。1951年(昭和26年)2月6日に放送された学芸大学最古の映像です(おそらく)。
参考/NHKアーカイブス>消えた税金二百万円 東京 日本ニュース戦後編 第266号 昭和26年2月6日
駅自体は青山師範駅時代とさほど変わりません。問題はこのあと。駅から第一マーケット方面へとカメラがパンするのですが、この瞬間です。
カメラが高速で振られるので、映像はブレていますが、明らかにおかしな風景が映っています。線路やホーム、あるいは植え込みのようなものが映るはずなのに、妙な物体が線路沿いにずらっと並んでいます。
これは完全に小屋の類でしょう。AIに描かせました。
こんな”立派な”小屋ではなかったでしょうけど、戦後直後はこのように不法占拠したバラックが並んでいました。もしかしたら闇市のようなものだったかもしれません。これは気づかなかった。
学芸大学駅時代

駅自体を見る前に、駅周辺の様子を見てみます。これは1958年(昭和33年)頃に撮影された西口の様子です。先ほどのバラックが並んでいた場所(現在のゆうちょ銀行ATM・交番あたり)は花壇のようなものになっています。
こちらは駅の南端を写した写真です。1959年以前に撮影されたものだと思われます。ホーム上の巨大な鉄塔はまた後ほど出てきます。
踏切通路(現在のマッターホーン前の高架下)あたりから撮影しているのですが、ホームまで少し距離がありますよね。

1959年(昭和34年)に撮影された航空写真です。先ほどはホームまで少し距離がありましたが、この写真では踏切通路ギリギリまでホームが延伸されています。しかも、写真を拡大するとよくわかるのですが、ホームの下は空洞です。
車両数が増えるのに合わせて、踏切ギリギリまでホームが延伸されたということです。とはいえ、後述しますが、この先には改札地下化&高架化が待っています。ですから、この延伸部分は木造の”仮ホーム”だったのです。

こちらも同年、1959年(昭和34年)に撮影された航空写真です。駅全体がよくわかります。
写真右手(南)からホーム・階段&改札(旧駅舎の位置)・通路・出札所&駅事務所と並んでいます。旧駅舎は新しいジャンクション的建物に建て替えられていて、この中にホームレベルから地上レベルへ降りる短い階段と改札があると思われます。

西口の写真です。転載元には「1960年頃」とあります。

こちらも西口の写真です。1962年(or1963年)に撮影されたものです。

1959年(昭和34年)に撮影された東口。

東口の写真です。1961年(昭和36年)12月11日に撮影されたものだそう。
うーん。ちょっと納得できない。
ひとつ上の写真では駅向こうに見える第一ストアーの屋上に「第一ストアー」という看板がついています。この写真に写っている第一ストアーの屋上には何もありません。
普通に考えるなら、看板がないほうが古そうなものですが、資料に記されている撮影年は逆。看板なしのほうが新しい。
また、一連の東西の4枚の写真には、駅入り口の上部に白い縦型の「自転車の通り抜け禁止」という注意看板がかかっている写真とかかっていない写真があります。写真の雰囲気からして、注意看板がかかっているほうが古く、かかってないほうが新しいようにも見えるのですが、ここにも一貫性がない。
元資料が絶対に正しいとも言い切れないので、撮影年はだいたいざっくり1960年前後だ、くらいに考えておくことにします。
ちなみに第一ストアー(大鷲ビル)が竣工したのは1961年(昭和36年)2月です。これも変なんだよなぁ。だって、屋上に「第一ストアー」の看板がある写真は1959年(昭和34年)です。ビル竣工が1961年。2年も間があるとは到底思えない。
なんかおかしく思えるのですが、記事の趣旨から外れるので、深追いはやめておきます。
Youtube「東横線100年~『沿線案内』にみるその軌跡~(WEB公開版)」で紹介されている写真のキャプチャです。上の写真と似ていますが、この写真がとんでもなく面白い。
この電車は東急5200系電車で、1958年12月1日から営業運転を開始します。日本初のステンレス鋼製車体の電車で、「青ガエル」のステンレス版ということで、「湯たんぽ」「ステンレスガエル」「銀ガエル」などと呼ばれていたそう。
さて、この電車は画像右手(渋谷方面)から左手(桜木町方面)へと向かいます。踏切が開閉しかけていますよね。まだ電車が動いているのに、この距離で踏切が開閉するわけがありませんから、この電車は止まっています。つまり……
最後尾の車両はホームに入り切っていません。駅舎区間に止まっています。
1960年前後は車両がどんどん変わっていき、編成(車両数)も増えていく時期。最後尾(or先頭)の1車両は扉が開かなかった、ということもあったのでしょう。
今でも駅によっては「先頭車両(最後の車両)の扉は開きませんので、ご注意ください」みたいなアナウンスが流れることあるじゃないですか。そんな感じだったのかもしれません。
さて、いよいよ学芸大学駅最大の謎がやって来ます。
地下改札となった幻の学芸大学駅
地下工事
ここから怒涛です。すさまじいです。約7年の間で改札が地下化され、駅・線路が高架化されます。
まずは地下化から。


1955年頃から高度経済成長が始まり、世の中が変わります。自動車交通量が激増し、渋滞や踏切事故が大きな社会問題となりました。
鉄道側においても大きな変化が訪れます。輸送力増強のための列車のスピードアップ、列車本数の増加などなど。先述の通り、東横線においては新型車両がどんどん導入され、車両数も増えていきます。そして、
- 東京オリンピック開催(1964年)による交通整備体制の強化
- 1961年(昭和36年)、踏切道改良促進法の公布
こんな外的要因も相まって、ホーム新設・延伸、立体交差工事がとてつもないスピードでおこなわれていきます。
学芸大学駅においては、車両数の増加に対応すべくホームを延伸しなければいけなくなりました。そして、そのために改札・駅事務室を地下化することとなりました。工期は1963年8月(昭和38年)~1964年(昭和39年)6月(1963年6月~という資料も)。

こちらが実際の仮駅舎・仮踏切。1963年(昭和38年)1月に撮影されたものです。
地下化の工事は1963年8月~とされています。ですから、東急電鉄としてはこの仮駅舎・仮踏切等の設置は地下化の前段階・準備段階という判断なのでしょう。
先ほどのホーム南端の写真には、ホーム上に巨大な鉄塔が立っていましたよね。この写真にも実は写っていて、このままだと人間の目では見えませんが、画像を色調補正すると見えます。
AIにカラー化させました。
現在のマッターホーン前です。ここに踏切があり、仮駅舎がありました。
もともとの駅舎や駅舎前の踏切をなくし、渋谷方面へ約25mホームを延伸しなければいけません。そのためにホーム最南端(桜木町側)、マッターホーンの前に仮駅舎を新設します。
まず、先ほど見た延伸していた木造の仮ホームを撤去します(簡易な造りだったので撤去しやすかったはず)。そして、ホームレベルから地上レベルへの階段を設置し、踏切通路ギリギリまで屋根付き駅舎にしました(もしかしたら踏切をまたいで駅舎があった可能性も)。
この仮駅舎はもともとの通路付き駅舎を移築して再利用している? 見た目がまったく一緒です。屋根と壁をこちらへ持ってきたのでは……。渋谷側の仮駅舎に関してはまた後ほど。
この踏切は電車を利用しない住民たちも通る道路なので、それだけでは乗降客・住民でごったがえします。ですから、仮踏切も設置されました。
この仮駅舎を利用している間に、渋谷方面へのホーム延伸、駅地下化の工事が進みます。
以上の工程は私が得た情報や写真から推察したものです。
先ほどの仮駅舎の写真の約半年後、1963年8月に撮影されたホームの写真です。一番手前に仮駅舎・仮屋根。確かに右奥・渋谷方面は工事が始まっている雰囲気がします。
1963年11月1日から一部列車で6両編成の運転が開始しました。この仮駅舎によってさらにホームが短くなったので、渋谷側に木造の仮ホームを作っていたそうです。ただ、正規の新ホームがすぐできますから、渋谷側の仮ホームの運用期間は短かったでしょうね。
撮影年不明。左奥に仮駅舎が見えます。右端が面白い。客が階段を下りています。これは地下へ下っているわけではなく、渋谷側のもともとの(or仮の?)駅舎・改札へと下りているはずです(地下改札だとしたら、階段の向きが逆だから)。
先述の通り、渋谷側の踏切がなくなった後は、こちらに改札はなかったというのが私の推測です。ですから、この写真はまだ踏切や改札がある時期ではないかと。
工事中のホームです。撮影年不明ですが、上のふたつの写真よりも新しい写真だと思います。ホームにふたつ階段が作られていて、どちらも人が上り下りしているようにも見えます。もう地下改札ができているのでしょうね。
先ほど「向きが逆」と言ったのも、これでおわかりいただけるかと。ホームから地下へ下るのなら、渋谷方面から桜木町方面へ向いて下っていくはず。けど、先の写真では渋谷方面に向かって下りて行っています。
1964年(昭和39年)。写っている人たちの服装からすると春~夏ごろでしょう。東急電鉄は地下駅の完成を1964年6月としていますから、この頃のこの様子が完成、と。実際、地下駅へと下ろうとしているサラリーマン・主婦もいます。地下を通って東西を行き来するの、まじうざかっただろうなぁw
写真左端には新設ホームより下に、チラッと古い駅舎らしきもの、おそらくは渋谷側の仮駅舎(の遺構?)が写っています。
こちらには改札や切符売場、仮踏切のようなものはなかったと思います。なぜなら東口が作れないから(線路際までビル・家屋が建っていて人が通れない)。桜木町側の駅舎だけでは狭いですから、こちらに駅事務所が置かれていたんじゃないでしょうか。
まさか西口方面にだけ仮踏切を設置したとか? そのためだけに改札・切符売場も仮置きしていた? いやいや、片側だけのためにそんなリソース割けないでしょう。

よくよく考えてみると、信じがたい工事です。毎日、電車が普通に通る中、地上ホームを使いながら、広大な地下通路・地下改札・地下駅舎を作っていたんですよ? しかも工期は1年とかかっていません。正気の沙汰じゃない。
シンプルにどこからどう掘り進めて行ったのかも想像できない。どうしていたのでしょう。本当に不思議。
ところで、ホームを延伸したり、高架化したりというのは、隣の祐天寺駅・都立大学駅も同様です。なのに、この両駅は地下化していません。なぜ学芸大学駅だけ地下化した?
これまた筆者の想像ですが、「土地」、これに尽きるのではないかと。
祐天寺駅・都立大学駅は相対式ホーム、上下線でそれぞれにホームのある駅です(※)。鉄道用地が広い。だからホーム延伸も高架化もしやすかったんじゃないでしょうか。
逆に学大は駅・線路の両サイトがギッチギチに住宅地。一気に高架化するのが難しかったのかもしれません。このあたりのことは次項「高架化」でまた。
※都立大学駅は島式ホームだった期間もあり
地下改札完成
完成した地下がどうなっていたのか、写真はもちろん資料も一切ありません(東急電鉄にはあるだろうけど)。一応、妄想で地下改札をイラストにしてみました。
自由通路は直線にしたいところなのですが、駅構内のホームへ上がる階段があるので、さてどうだったか。階段をくぐるような形で自由通路があった可能性もあります。
最初に現在の様子を見てみましょう。こちらに西口の階段がありました。今はどうなっているんでしょうね。
東口の階段はここ。
ここは庄や(閉店)へ下る階段でした。もちろん当時の階段そのままというわけではなく、当時の階段を利用するような形で作り直されてはいると思います。
庄や 学芸大学店には3回ほど行ったことがあったのですが、当時の自分に言ってやりたい。「よく見とけ」とw 昔の地下駅の名残のようなものはなかったか、ちゃんと観察しておけばよかったなぁ。
学大市場の正面にシャッターがあります。
Googleストリートビューではシャッターが開いている!w
私も開いているところをのぞきこんだことがあるのですが、ここには地下への階段があります。ストリートビューの画像を拡大すると、階段の手すりが確認できます。
先ほどの工事中のホームで見た通り、ホーム上の階段は桜木町方面を向いて下っています。けど、このシャッターの奥の階段は逆、桜木町方面へ上っています。ということはつまり、折り返しのあるコの字の階段だったということです。
では、地下完成後の様子を見ていきましょう。

1964年(昭和39年)の東口。先ほどの西口の写真とほぼ同時期。

1966年(昭和41年)。改札・切符売場・駅事務室等の地下化が完全に終わり、階段入り口もきれい。西口の階段前には売店があったんですね。
下馬に東京学芸大学があったのは1964年3月31日までなので、二人の学生さんは同校とは関係ないかもなぁ。
1965年(昭和40年)のホーム上の様子。地下への階段が写っていたらよかったのになぁ。この写真では判別できません。
蛇足ですが、第一ストアーにビリヤードがあったんですね。エビス参の筋にも2軒あったので(アサヒ・さざんか)、もしかしたら同時期に3軒以上のビリヤードがあったということになります。
さあ、落ち着く暇はありません。もう高架化が始まります。
高架駅
立体交差工事/高架化工事中の学芸大学駅
1966年(昭和41年)、地下が完成した2年後には中目黒~都立大学の立体交差工事が始まります。東横線における最大の難所。
まず、踏切が多い(16ヶ所)。交通量の多い駒沢通りをまたぐ(祐天寺4号)。複雑な環七交差。
学芸大学駅周辺は基本的に直上式高架橋です。他と比べてとにかくスペースを取らないように高架化されます。
詳しいことは置いておいて注目したいのが、H型擁壁、3柱式高架橋など、一般的な高架工事の名称が並ぶ中、祐天寺4号橋第部だけ個別の名称が与えられた方式で高架化されたということです。

1966年(昭和41年)、まさに立体交差工事が始まる年に撮影された駒沢通りと東横線が交わる地点。狭いわ交通量半端ないわで、ここを高架にするのは大変だったそう。高架化には特別な工法が必要だったということなのでしょう。
また、環七付近もすごいです。学芸大学駅からの高架は環七手前で地表レベルになります。その上を環七がまたぐ。環七を越えてもしばらく地表で、その先で高架になり、今度は目黒通りを見下ろす形になります。
聞くだけで大変そうだなぁとw

1967年(昭和42年)の工事の様子。向こうに橋が見えます。環七かその手前か。いずれにせよ北から南を向いて撮影されていると思います。

撮影年不明。だいたい松月庵のあたりから学芸大学駅方面を向いて撮影されています。一番左端の黒っぽく見える建物がマッターホーンでしょうか。その正面、線路内に明るい帯があります。そこに踏切・道路があり、建物や柱で遮られていないからでしょう。
で、ここに踏切があるということは、すぐその先はホーム。写真を拡大するとホーム南端の柵のようなものが確認できます。
とにかくまあ狭いですね。
参考までにこちらをご覧ください。撮影年は不明ですが、1961年に高架化された都立大学駅の工事の様子です。学芸大学駅周辺の工事に比べ、なんてゆったりとしていることでしょうw
Youtube「東横線100年~『沿線案内』にみるその軌跡~(WEB公開版)」で紹介されている1969年(昭和44年)の学芸大学駅ホームです。電車がどちら方面へ向かっているのかは不明です。
同年、1969年に下り線が高架化されるので、もしこれが桜木町行きだとしたら、高架化される直前。もし渋谷行きだとしたら、下り線はもう上の線路を通っているかもしれません。

下り線が高架化され、上り線が高架化されるまでの半年強はホームが上下2つに分かれていたということなのですが、これはすなわち、下り線ホームへ行くためには地下へ下り、そこから現在のホームのレベルまで階段で上っていたということになります。ざっくりビルで換算すると、地下1階へ下り、そこから3~4階へ、つまり4、5階分上ると。きっつw
地下から高架上まで、どのような動線だったかも気になるのですが、そもそも地下自体がまったくわかりませんから、ここを考え始めても仕方ない(楽しいけれど)。いつか答えがわかるまで、宙に吊っておくことにします。
高架化後の学芸大学駅
学芸大学駅の高架化後から近年までをザっと見てみます。
| 1969年 昭和44年 | 下り線高架化 |
| 1970年 昭和45年 | 上り線高架化・東急ストア 学芸大学店オープン |
| 1971年 昭和46年 | 普通乗車券の自動化・自動改札機をテスト導入 東急ショッピングコリドール開業 |
| 2000年 平成12年 | エスカレーター・エレベーター設置 |
| 2012年 平成24年 | GAKUDAI KOUKASHITAオープン |
| 2013年 平成25年 | ホーム延伸 |
| 2014年 平成26年 | ホームドア設置 |
1970年(昭和45年)に東急ストアはオープンしますが、オープン当初は東光ストアでした(東口商店街沿いにあった東光ストア 鷹番町店が移転するような形。いつ東急ストアと改称したかは不明)。
自動発券機・自動改札は東横線の3駅(祐天寺、学芸大学、桜木町)が自動化モデル駅として先行導入されました。
2000年(平成12年)、高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律(交通バリアフリー法)が公布されました。これに伴い、2000年(平成12年)から2001年(平成13年)にかけ、エスカレーター・エレベーターが設置されます。
2008年(平成20年)から耐震補強工事が始まり、それとともに高架下のリニューアルが進みます。
ホーム延伸は東横線と東京メトロ副都心線との相互直通運転に向けた10両編成対応のためでした。2009年(平成21年)に着手、2013年(平成25年)に供用開始されました。
1970年(昭和45年)を高架駅のスタートと見るなら、以降これまで、細かな変化はあるものの、大きな変化はありません(それまでの変化に比べれば)。
では、非常に少ない学芸大学駅の写真を見てみます。
撮影年不明ですが、1970年代~1980年代でしょう。モノクロだから1970年代かな。私が知る限り、高架後の学芸大学駅のもっとも古い写真です。
AIでカラー化しました。
駅の造り自体は基本的に現在と同じです。東急ショッピングコリドールの派手で大きな看板が目立ちますね。地下への階段があった場所には小屋のような建物が建てられました。ソフトクリームの看板が出てるので、軽食・喫茶って感じのお店だったのでしょうか。
自転車の路駐がすごいのですが、学大に長くお住まいで1990年代をご存じの方であれば、こんなのはまだかわいい方と思われるかもしれませんw


おそらく1971年に撮影された、同年に導入された学芸大学駅の自動券売機と自動改札です。初乗り30円! 時代だなぁと思う一方、私が生まれた頃ですから(1973年生まれ)、そんな時代に生まれていたのかと妙な感慨になります。

余談も余談なのですが、この頃、数年間(1974年~1978年くらい?)、祐天寺(蛇崩)に住んでいたので、もしかしたらこの雰囲気の学芸大学駅を利用したことがあったかもしれません。
当時の自分に言ってやりたい。「よく見とけ」と。「しっかり記憶しておけ」と。「ポップコーンむさぼってる場合じゃねぇぞ」とw

1971年(昭和46年)に撮影された、同年に開業した東急ショッピングコリドール。高架をくぐった先がマッターホーンです。
この数年前までは、ここに踏切があり、仮駅舎がありました。それが地下になって高架になって……目まぐるしい。

これは1990年代以降でしょう。AIカラー化写真ではありません。元からカラー写真です。
この風景になると、覚えている方も増えてくるはずです。
以下は1991年のYoutube動画からです。学芸大学駅および周辺エリアを映した数本の動画からキャプチャしました。
- 1991年夕暮れの学芸大学駅辺り 西口商店街 Gakugeidaigaku Station 910518
- 1991 Afternoon Gakugei-Daigaku Station Area 学芸大学駅 (910518)
- 1991年 学芸大学駅辺り Gakugei-Daigaku Station Area (910601)
高架化されて20年。駅外観はまったく変わっていません。
派手な東急ショッピングコリドールの看板はシンプルなものに変わり、放置自転車はさらに増えましたがw
外の建物は、みそ汁・おにぎり・お弁当のお店になっています(店名不明)。この後、カレースタンドがあったとの情報もあります。
改札を出ると正面に東急ストアがあるのですが、その間のコンコースで雑貨や金物などを陳列・販売していました。
改札を出たすぐ右には「シウマイ」の看板。崎陽軒です。
駅前にはおでん屋台も出ていました。暖簾には淳美家という屋号が書かれています。
これが面白い。名店街入り口なのですが、「20周年」という提灯が下がっています。東急ショッピングコリドールは1971年に開業しましたから、1991年は20周年。
そして、ぜひ動画で見ていただきたいのですが、緑の上着を着たこの男性に注目です。右手からサーっと左手、今はシャッターが閉まっているあの階段方面へと早足で歩いていきます。
階段が開口していて、階段を下って行こうとしているからこそのスピードです。もし、ここが閉まっていたら激突するw
今でも時折、どこかのスタッフらしき人が上り下りしているのですが、昔は今よりもっとこの地下が利用されていたのでしょうね。たぶん、東急ショッピングコリドールのテナントが倉庫のような形で使っていたと思うのですが。
改札。まだエスカレーターはありません。現在、エレベーターの場所には立ち食いそばがあります。
そばのほか、カレーや丼ものもあったようです。なんて店だったのだろう。
そしてこちらが記事執筆時の学芸大学駅および駅構内です。
駅の形、街の形
- 島式ホームで始まり、遂にそれは変わらなかった
- 踏切を覆うように強引に設置された駅舎
- 地下化という苦肉の策
- 苦心して高架化
鉄道用地が狭く、これを拡大できず現在に至る学芸大学駅……なんですが、逆にこうも言えます。学芸大学駅がコンパクトに収まっているからこそ、この街の今のこの雰囲気が醸し出されていると。
鉄道用地が狭い=駅東西の隔たりがあまりない=駅周辺が一体化=ギュッと詰まったコンパクトな街。
もし、どこかで線路沿いが整理され、ホームが相対式になり、駅も大きくなっていたら、この街は今とはまったく違う姿になっていたでしょうね。
学芸大学駅の変遷には、この街の特性が反映されている。と同時に、学芸大学駅の形はこの街の今を形作った――そんな風に感じました。
当記事を執筆している翌年は2027年。学芸大学駅開業100周年です。
学芸大学駅の形はどうなっていくのでしょうか。この街はこれにどう影響を与え、この街にこれがどう影響を与えるのか……。私が生きている間に、果たしてその答えを目にすることがあるでしょうか。
この100年をさかのぼって見てみるに、よっぽどのことがない限り、だいたいこんな感じで行くんじゃないかなぁと。この駅を大幅に変えるなんて、到底できなそうw
お願い
学芸大学および学芸大学駅の昔をご存じの方、「あそこって、こうだったよ」「それはちょっと違って、こうだったんだよ」そんなことがありましたら、ぜひぜひ情報をお寄せください。
あるいはご両親やご祖父母様が古い学芸大学駅の写真を持っている、なんて方はご提供いただけると嬉しいです。
まーとにかく、何にせよ、この街は古い情報がないんです。
ご連絡はSNSのDMでも構いませんし、お問い合わせフォームからでも結構です。よろしくお願いいたします。


