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バー・一路(いちろ)は学芸大学の夜に揺らぐ帆船。色気のある伝説のマスターが作る酒はめっぽううまく、優しくて穏やかな時だけがここに流れていました。

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※2019年3月に閉店しました

深夜0時。いつもの通り、学芸大学で2軒ほど回り、これまたいつもの通り、よく行くバーを目指します。相変わらず関本恭平は客が入ってるなぁ。うたげカフェからも賑やかな声が聞こえてくる。お、まだ外海の看板に明かりがついて……ん? え? おや?

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いやいや。まさか。外海の真向かいに、初めて見る赤い灯。なんだこれは。バー? スナック? 黒い扉を開けてみました。

「こんばんはー」

店の奥から姿を現したのは、60代後半から70代前半と思しき男性。

「こちらは何ですか?」

「バーです」

「料金体系はだいたいどんな感じでしょう」

「ビールやカクテルなどは600円ほどからで、スコッチだと1000円くらいでしょうか」

「チャージはありますか?」

「いえ、ノーチャージです」

「じゃあ一杯いいですか?」

「どうぞ」

「一杯ってことはないか。二杯、三杯になると思いますが(笑)」

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学芸大学駅から徒歩2分。西口商店街のサーティーワンを曲がった先のビルの奥にひっそりと佇むバー・一路。カウンター7席だけの小さなバーです。壁もカウンターも真っ黒。このチェンバロはバッハかな。ジントニックを作ってもらいながら話を聞いてみました。

「たまに外海に行ったりするし、ここもよく見ているはずなんですが、看板に明かりがついているのを初めて見ました」

「数年休んでいて、今年に入ってまた始めたんです」

「そうですか。私は学芸大学に来て3年半くらいなんですけど」

「ああ、だったら看板がついてることはなかったかもしれませんね」

なんだろう。とても落ちつきます。初めてお会いしたというのに、すらすらと気兼ねなく何でも話せる。そして何よりこのマスター、色気がある。のちにわかったのですが、マスターは73歳。その歳にしてなお色気をまとってらっしゃいます。この感じ……。そうだ。たとえば麻雀さくらのマスター、あるいは東軒のマスター。そんな雰囲気。ダンディーで色っぽくて、だけどチャーミングで。かっこいいなぁ。

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ジントニックがやってきました。垂直に伸びるグラス、水平に突き出すライム。いい。とてもいい。このバランス感覚、素晴らしい。見た目だけじゃありません。雑というわけではなく、ザックリと作られたジントニックはキリッと引き締まっています。この上なくうまい。

「こちらは何年くらいになるんですか?」

「10年くらいです。その前は30年、六本木でやっていました。ここはもともと、母が40年ほどスナックをやっていて」

マスターの経歴に関しては、徐々に詳細がわかっていきました。その話はまた後ほど。

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店に入った瞬間から気になっていた背後の帆船。全長は優に1m以上あります。大きいし細かい。

「これ、すごいですね。全部、ご自身で作られたんですか?」

「ディアゴスティーニなんですよ。5年くらいかかりました。あと数ヶ月でできそうです。最後に大砲と船員を乗せれば完成です」

「えええ、5年ですか。すご。有名な帆船なんですか?」

「ヴィクトリー号。1800年ごろ、ナポレオンとかの時代に活躍したイギリスの軍艦です」

かのネルソン提督が乗っていた、イギリス海軍の旗艦・ヴィクトリー号。1805年、ネルソンはフランス・スペイン連合艦隊を撃破、大勝利を収めるも戦死しました。有名なトラファルガーの海戦です。

「当時の大砲は火薬で爆発させるんじゃないんです」

「てことは、鉄球をドーンとぶつける感じですか?」

「ええ」

「けど、球はどうやって発射させてたんでしょう」

「それは火薬です」

「あー、なるほど」

「この船には1000人くらいが乗船してて、100門ほどある大砲を撃つのに400人必要だったようです」

「えええ。1000人? すごいなぁ」

とにかく船についてお詳しい。この他にもいろいろな興味深い話をうかがいました。

「海がお好きなんですか?」

「以前、ダイビングをしていました。学生時代は山岳部だったんですけどね。今はもう登ってませんが、今年の7月に富士山に登ることになったんです。ですから、トレーニングのために万歩計をつけて歩いてるんです」

うーん、素敵だ。話し方が穏やかで、人を包み込むようなぬくもりがある。話を聞いているだけで心が安らぎます。

バックバーにはスコッチが並んでいます。ロイヤル・ロッホナガー、バルヴェニー、スプリングバンク、ハイランドパーク、ラフロイグ、マッカラン――バックバーを眺めながらマスターの話を聞くだけで、いくらでも時間が潰せそう。とても穏やかで優しさに溢れた時間が過ぎて行きます。

と、ここで来客。マスターとも親しい、何度もここへ来たことのある、私より5、6歳年下の男性二人組です。この二人のおかげで、マスターの経歴などがどんどんつまびらかになっていきます。私が聞きたいこと、あるいはまったく想像もつかず私では聞き得なかったようなことを次々とマスターから引き出していくからです。

聞いた話とネットの情報をまとめるとこんな感じ。

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画像転載元:内田デザイン研究所

1973年、マスターが30歳の頃(そして私が生まれた年)、六本木にBALCON(バルコン)というバーを開きます。六本木ヒルズの前の明治屋の筋を入ったところです。balconはフランス語でバルコニー。店舗をデザインしたのは内田繁氏でした。桑沢デザイン研究所を卒業し、同研究所所長も務めた、インテリアデザイン界の巨匠です。

BALCONはデザイン、アート、マスコミ関係者が多く集っていた、今となっては伝説とも呼べるようなすごいバーだったそうです。ところが、創業31年目の2004年2月18日、マスターは突如、BALCONを閉めます。理由はわかりません。

※2017.01.13追記:後日、再訪した際、閉店した理由を聞いてみました。「さすがに30年もやってたら、私も歳取ったし、物件も古くなって、もういいかな、と」だそうです。

BALCONを閉めたマスターは知り合いに頼まれ、同年4月1日、西麻布にsalon de Gというバーを立ち上げ、1年間だけバーに携わります。そして学芸大学へとやって来ました。

マスターはもともと学芸大学界隈のご出身だそう。そして、バー・一路をやる前はお母様がここでスナックを40年ほどやってらっしゃったのだとか。確か一路という名前にはそれほど深い意味はなく、お母様がなんとなくつけた、とおっしゃっていたような。記憶がすっ飛びました。

参考サイト:Junichi Mukai「六本木のバー“BALCON”のこと」

2杯目はカウンターの目の前に置かれていたスキャパ(SCAPA)。1軒目・sideway(サイドウェイ)でタリスカー(TALISKER)を飲んでいたので、島モノをもうひとついってみたかったのです。

このボトルは見たことないなぁ(上のジントニックの写真、グラスの後ろにチラッと見えるやつ)。SCAPA 14年か。久しぶりのスキャパでした。タリスカーと比べると、もちろんライト。スキャパってピート使ってたっけ? どうだったかな。かすかにピーティーというかスモーキーな感じもあったのは気のせいか。

氷が溶けて少しずつ表情を変えていくスキャパをチビリとしながら、引き続き、三人の会話に耳を傾けます。

マスターを慕う女性客が多いのだそう。だろうなぁ。わかる。モテそうだもん。へぇ、マスターは「源平」に行くんだ。え、この三人でガールズバーにも行ってるのかw そんな中、お客さんがこんなことを言いました。

「ネットで調べても、このお店のことほとんど出てきませんね」

「のんびりやりたいしね」

なんだか釘を刺されたかのようw

店を閉めていた数年間は単に休んでいたわけではなく、具体的には書きませんが、諸事情あって大変だったご様子です。その状況が一段落つき、ゆっくりのんびりバーを再開されました。

来る客はおそらく昔からの常連さんがほとんどでしょう。マスターの人柄に惚れ、マスターに会いにここへやって来ます。

「マスターは船みたいですね。ここで舵を取って、お客さんをうまく仕切って、マスターという船にみんな乗りに来る」

と隣の男性。うまいこと言うなぁ。ほんとそう。

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デザイナーのお客さんにデザインしてもらったという一路の看板。ショップカードもこの柄です。赤地に黄色の真一文字は国際信号旗(NATO信号旗)で「1(one)」を意味します。一路の「1」かな。

にこやかな優しい笑顔で話す、ダンディーで色気のあるマスターが辿って来た40年、50年の歴史は、まさにバーテンダー一路。長年の経験に裏打ちされた深みのあるマスターの操舵はただひたすら心地よく、いつまでもこの船の揺れに体を任せていたい、そう感じるのです。

ゆっくりと進む静かな船。突然、観光客で賑わいだし、もともとの乗船客、あるいはキャプテンに迷惑がかかってもいけません。これを読んで行くにせよ、なにとぞお取り計らいのほど、よろしくお願い致します。

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追記:後日、3度目の訪問時に飲んだB&Bのオリジナルレシピ。B&Bはブランデーとリキュールのベネディクトを半々で割るカクテル。これは2:1で割って保管しておいたものです。B&Bほどは甘くなく(と言っても相当甘い)、作って置いてるから味が馴染んでいます。めっちゃうまい。甘い系が好きな人はぜひ。ストレート、ロック、炭酸割りで。

SHOP DATA

  • 一路(いちろ)
  • 東京都目黒区鷹番3-7-12 サンループムカサ1F
  • 03-5722-1957
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