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新しい目黒を築いた紅葉が丘/紅葉会の歴史~中町東町会/中央中町会・油面に移り住んできた人々と失われた地名への憧憬

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目黒区中町2の紅葉

説明を始める前に、まずは実例を挙げてみます。

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1933年(昭和8年)の大東京市目黒区全図です。まだ目黒競馬場(1907年~1933年)があった頃。目黒区立目黒中央中学校・目黒区立中町保育園のあるあたりに紅葉丘幼稚園がありました(年によっては「紅葉ヶ丘幼稚園」という表記も)。

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ちなみに、こちらが現在の目黒区立目黒中央中学校と目黒区立中町保育園。目黒中央中学校は手前から奥にかけて上りになっていて、左手から右手にかけて下りになっています。このあたりがポイントになるので覚えておいてください。

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目黒区全住宅案内地図帳 昭和54年。もみじ荘と紅葉荘があります。

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紅葉荘は今でもあります。

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ゼンリン住宅地図 '94 目黒区。紅葉ヶ丘マンションがありました。現在、マンションはありません。隣の敷島建設の駐車場兼資材置き場になっています。

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現在のgoogleマップです。スカイハイツ紅葉(もともとは紅葉荘というアパートだった)、紅葉荘(上の紅葉荘と同じ)があります。そして、上のもみじ荘があった場所にはメイプルフォーというアパートがあります。紅葉=かえで=maple(メイプル)。

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こちらが実際のスカイハイツ紅葉、メイプルフォー。

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紅葉ではないのですが、紅葉を意識しているとしか思えないような名前の紅荘。

このように目黒区中町2丁目は紅葉でいっぱいです。もちろんこれは偶然ではありません。昔、この界隈が紅葉が丘と呼ばれていた名残なのです。

というわけで今回は紅葉が丘および自治組織・紅葉会についてです。

先日の学芸大学の市場シリーズ同様、資料がほとんどありません。ですから、筆者の推察が多分に含まれます。推察の部分はそのように書くので、事実と推察を読み分けてください。

紅葉が丘・紅葉会が誕生した経緯

紅葉が丘は移住者たちによる新興住宅地

1923年(大正12年)、関東大震災が起きました。そして、家を失った都心部の人々がこぞって郊外へと移り住みます。その移住先のひとつが祐天寺・学芸大学・武蔵小山界隈です。震災前後の10年で目黒地区の人口は3倍、荏原地区の人口は10倍になりました。

町会・紅葉会が誕生したのはそんな折、1931年(昭和6年)のことです。

以下、引用はすべて「めぐろの昔を語る」(目黒区郷土研究会)からです。界隈のご年配方に聞き取りをしたことがまとめられています。出版は1995年なので、聞き取りは1990年代初頭に行われていたのでしょう。当時でおそらく70代以上の方ばかりだと思います(ご存命なら100歳を越えている方々)。

紅葉が丘は現在の中町二丁目一帯の地域であり、関東大震災後他地区から移入してきた人々(主として勤労者)によって形成された新開地でした。従って目黒の他地区でみられるような、土地の旧家(地主、指導者)は存在せず、旧家の影響を受けない自治組織として誕生した(昭和六年)町会紅葉会は、当時としては異色の存在ではなかったかと思われます。

それ故、区域内を紅葉が丘と命名し、町会名を紅葉会と名づけ、各戸に楓樹を植栽することを決議したことなど、そのユニークな業績も納得がいくところです。初代会長奈良橋喜光氏も品川町役場の税務課長退任後、昭和五年南品川より転入してきた方です。

今、この地域を散策すると、当時の名残の楓樹が或いは庭の一隅に、あるいは垣根越しに葉を繁らせている景がみられます。また、つい先年まで電柱に「紅葉が丘」という町名標識板が取り付けられていたということだし、往年を懐かしんでかマンション名に「紅葉が丘マンション」の看板を掲げるオーナーもいます。また、昭和十六年版目黒区地図には「紅葉が丘幼稚園」の名も見られます。

(中島正伍さん)

具体的にどこからどこまでが紅葉が丘と呼ばれていたかはわかりません(そもそも厳格に決まっていたのかどうかも不明)。ただ、以下の図から、このあたりが紅葉が丘のメインエリアだったと思われます。

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後ほど現在の写真を紹介しますが、昭和2、3年ごろは紅葉が丘本通りには10軒もなかったそう。これが爆発的に増えていきます。

紅葉が丘は下記(※上の手書き地図)のような位置関係にありました。昭和の初期、私の家はその一隅で食堂をやっていました。等々力方面からの農家の牛馬の休み場所になっていました。お湯が始終わいていたので、そのお湯でかいばをとかし牛馬に与え、農家の人々は食堂で休憩し飲食をしました。

紅葉が丘の住人は元からの人は少なく、殆ど震災後、土地を求め自宅を建てた人たちでした。勤労者でも重役級で生活にゆとりのある方が多くいました。私の父は植木職でもあったので、町内の植木の世話をしていました。各戸に楓樹を植栽する決議がなされたのは事実で、細い苗木を各戸に植えました。数年後には大きく成長しました。

(中野まさ子さん)

等々力方面から農家が牛馬でやって来ていたというのも驚きです。今でも残っている楓はあるのでしょうか。

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赤白のビルが敷島建設株式会社

手前から右奥へと向かう道は中町通り。中町通りから斜めに入っていく細い筋が紅葉が丘本通り。あとで詳しく見ますが、当時はまだ中町通りは整備されていませんでした。

紅葉が丘は丘だった

さて、なぜ紅葉が丘と命名されたのかは不明です。

私の家も震災の後、移ってきました。当時はタバコ屋(納富)さんと北城さん、山根(八春)さんくらいしか人家はありませんでした。

町名の紅葉が丘に決まった際、光が丘と紅葉が丘と二つが候補に上がって二手にわかれたが結局、紅葉が丘に決定したと父が会合から帰ってきて話していました。

紅葉が丘という名称は行政名ではなく、自治組織の名称だったと思います。家の前の通りを紅葉が丘本通りと呼び、その左右一帯を紅葉が丘と言っていました。行政名ではないから自然消滅したものと思います。私の家にも楓はありましたが、今の家を造るとき整理したものと思います。

紅葉が丘は震災後の新開地(新興住宅地)でしたから、当時では珍しい知識階級というかホワイトカラーの町でした。こういう土地柄でしたから、各戸に楓を植えるとか、町名を紅葉が丘とした等の発想が生まれたのではないでしょうか。

(大西修さん)

各戸に楓を植えたにせよ、もしかしたらもともと紅葉がたくさんあったのかもしれません。

「丘」というのはよくわかります。

私の家は震災後、大正十四年に文京区からここへ移ってきました。

現在の区役所あたりまでは一面の田圃でした。区役所付近に湧水があり、これを水源として今のバス通りに添って小川が流れていました。川の向こう側は土手でした。川にはドジョウが住み、ギン、チャンなどトンボが飛び交っていました。祐天寺方面を望めば、裏門あたりまで一面、傍目と田圃で一望千里の風景でした。

三角山は小高くなっており、樹木が繁って涼しく、夏はハンモックを吊って休む人もいました。その一角にお稲荷さんがありました。

(北城峻秋さん)

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こちらが三角山に後年できた三角山公園です。

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紅葉が丘は震災後の新開地(新興住宅地)でしたから、当時では珍しい知識階級というかホワイトカラーの町でした。こういう土地柄でしたから、各戸に楓を植えるとか、町名を紅葉が丘とした等の発想が生まれたのではないでしょうか。

今の区役所あたりから祐天寺までは田圃等田園風景が広がり、川が流れていました。油面の手前を川が流れていて、こちら側が丘になっていました(紅葉が丘)。五中の向こう側にも小川があって先は目黒川にそそいでいたと思います。(中略)五中付近は芝造りがさかんで芝仙さんは有名でした。芝生の栽培に肥料として人糞をまいていましたが、そんな芝原で私達子供は取っ組み合って遊びました。

三角山はこちらからは高くないのですが、向こう側は川へ下りる急な土手になっており、笹や松が生えていて向こうからは昇れない状態でした。子供達のよい遊び場になっており、一角にお稲荷さまがありました。

(大西修さん)

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今は小高くはありません。100年で地形も随分と変わりました。ただ、写真ではわかりづらいかもしれませんが、実際に現地へ行くとよくわかります。坂だらけです。ここもそう。信号に向かって下り、信号の先は油面公園に向かって上りです。つまり、中町通りは谷になっているということです(ここ重要)。

ならされて、今となってはこの程度の勾配ですが、田畑があった頃はすごかったでしょうね。場所によっては崖のようになっていました(上の地図によると2~3mの崖も)。

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目黒区立中央中学校の前がちょうど工事中でした。これはわかりやすい。水平を取るにはこれだけ盛らなきゃいけない=これだけ勾配があります。

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この一帯の南側、北側には川が流れていて(谷戸前川)、谷のようになっていました(詳細後述)。ですから、相対的に一帯が丘のようになっていたのです。

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余談ですが、上の手書き地図に載っている旧五中で芝養植場をやっていた芝仙は今でもあります(芝仙造園)。さすがと言いますか、それはそれは見事な植木。

以上の通り、当時は丘のようだったこの一帯に紅葉が丘が誕生した、ということです。

なぜ紅葉会が組織されたのか

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こちらは「東京都町会自治会等実態調査報告書」(昭和31年)による、目黒区の各町内会から聞き取りをした町内会の設立動機です(「目黒区史」より)。

戦後の調査なので、戦前の紅葉会にそのまま当てはまらないかもしれませんが、おおよそこんな感じなのでしょう。各戸に楓を植えて連帯意識を持とうとしていましたから、親睦を深めるという目的が強かったはずです。

ただ、新たな居住区ですから、行政に対してさまざまなことを要望していかなければなりません。そんな際に町会としてまとまっていないと陳情もできない。ですから、表中の「公官庁との連絡協調のため」という動機がもっと高かったような気もします。

また、当時は下水処理が重要課題でした。ここも各戸だけの問題ではないので、町内会としてまとまる必要があったかもしれません。

地域の分裂と統合

ふたつの五本木と油面

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こちらは東京市目黒区が誕生する前、界隈がまだ目黒町だった当時の地図です。五本木・油面はそれぞれふたつありました。

  • 上目黒五本木
  • 中目黒五本木
  • 中目黒油面
  • 下目黒油面
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現在の地図にざっくりプロットするとこうです。そして……。

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1932年(昭和7年)、目黒町と碑衾村が合併し東京市目黒区となりました。この際、中目黒五本木と中目黒油面が一緒になって中目黒四丁目となりました。

上目黒・中目黒という違いはあれど、すぐ隣だったふたつの五本木。

中目黒・下目黒という違いはあれど、すぐ隣だったふたつの油面。

これらが隔てられ、真ん中の五本木と油面がくっつき、新たな町になったというのが1932年(昭和7年)だったのです。

以上を踏まえて、以下をどうぞ。

乱立する町内会

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「目黒区史 資料編」より町内会変遷一覧です。

紅葉会のある欄の町内会を縦に見ると、ことごとく昭和7年創立なのですが、これにはわけがあります。

市域拡張―われわれは表3における時期区分のうち関東大震災を過ぎた期間,すなわち昭和3年から8年の間に,新市域において極めて著しい町内会の増加があったことを理解したが,これを招いたのは昭和7年に行われた東京市の市域拡張だったのである。

引用元/戦前の東京における町内会(中村八朗)

上述の通り、15区だった東京市に周辺5郡82町村が編入し35区になった年、すなわち荏原郡目黒町と荏原郡碑衾町が合併し目黒区が誕生した年に、行政区の変革に伴い町内会が再編成されるようになったからです。

面白いのが、この界隈だけで中目黒4丁目町会、紅葉会、油面町会、中目黒4丁目同志会、油面会と、5つもの町会ができたということです。同じエリアになぜこんなにも町会ができたのでしょう。

理由はいくつか考えられます。

新旧住民の地域に対する意識の差

ただし市域拡張の一つの理由であった震災後における周辺町村における人口の急増にともない,新来住者があらたに形成した居住地域も多く,それらが従来からの区の統合には組み入れられなかった関係からか,従来のように一つの区ごとに一つの社会的統合を果たしていない場合もかなり現れたようである。

(中略)

この記述から察すると,一つの区で旧住民が一つの町内会を組織するのと並行して,同じ区に住む新住民が別にまた一つの町内会をつくるといったことが少なくなかったのであろう。いずれにせよ,以上の動きが新市域での多数の町内会の設立につながったのであった。

引用元/都市と技術 第5章:戦前期の町内会ー東京市の場合について(中村八朗)

紅葉が丘は移入してきた人が大半です。一方、油面方面は昔から住んでいた人が比較的多かった。新しい町作りを目指す人たち、従来の町の慣例を守りたい人たち。対立というほどではないと思いますが、地域に対する意識の差が町会を分けさせたのかもしれません。

谷で隔てられた地域

もうひとつ、地勢的要因もあったかもしれません。

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紅葉会のエリア(赤)と、おそらくはこのあたりだっただろうと思われる油面町会のエリア(黄色)です。すぐ隣に見えますが、当時、両者の間には水田が広がっていました。

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この地図でもよくわかります。集落と集落が水田を挟んで真っ二つに分かれています。

今でこそ緩やかになっていますが、当時は崖といってもいいくらいに高低差がありました。とするなら、同じ中目黒四丁目でも、現中町通りを挟んで南と北ではそこまで交流がなかったのではないでしょうか。そんな住人たちがひとつの町会にまとまろうというのも無理な話です。

生活エリアの違い

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右手前の電柱に「中央中通り」、左手奥に「昭和通り」の標識

また、生活エリアの違いもあったでしょう。

紅葉が丘一帯は昭和通り・祐天寺方面を向いて生活をしていたはず。一方、油面通り以南は現油面地蔵通りや目黒通り方面へ意識が向いていたはず。

今ならどちらへでもササっと行けますが、当時、大きな谷を越えて油面から昭和通り、紅葉が丘から油面へと日々、買い物に出かけていたとは到底思えません。どこを身近に感じていたかの差が町会の分裂に表れた可能性もあります。

町内会の整備

ところが、他所の町内会も同様なのですが、1935年(昭和10年)以降、町会が統合されて行きます。紅葉会と油面町会が統合し中央会となり(1938年/昭和13年)、さらに中目黒4丁目町会とも合流し、中目黒4丁目中央町会となりました(1940年/昭和15年)。中目黒4丁目同志会は油面会と統合し、油面同志会となっています。

東京市会は昭和10年になって市の理事者に町内会の整備に着手することを強く要望した。これによって昭和11年予算には町内会整備費が計上されることとなり,翌12年にはこの整備費は倍加されて2万7千円,さらに13年にはそれに対する予算は一挙に25万円と飛躍的に増大した。加えて同年5月には市の監査部区政課に町会掛が設けられ,これとともに市の町内会に対する対策が調査期から実施期に入ったのであった。

では整備を実施するといった場合,どのような点に整備の必要があるとみられていたのであろうか。その主な点は以下のようであった。

町会の区域……一般に1町内に1町会が組織されていることが理想とされていたが,実際には1町内会の範囲が1町内の一部に過ぎない場合,逆に1町内を越え,時には3町内,4町内にも及ぶ場合とか,1町内会の範囲が2区に跨がる場合があったので,それを整理して1町内1町会にする。

名称の統一……個々の町内会成立の契機が既に述べたようにさまざまに異なるので,例えば睦会的名称,衛生組合的名称,商栄会的名称,自治会的名称などの町内会がかなり混じっていた。そのような町内会には地名を付した町会という名称を名乗らせるようにする。

以上の他に事務所を持っていない場合には,町会事務所の建設,設計などの相談に応じるようにしてその建設を促進するとか,町内会あるいは町内会間に確執のある場合はその調停を図るとか,さらには町内会事業に対し助成金を交付するなどの策が講じられたのであった。

引用元/同上

東京市が予算をつけつつ、町内会整備を強力に押し進めていったからです。ここには戦争という国策も絡んでいたのですが、長くなるので略。

また、宅地化が進み、土地の高低がならされ、昔より行き来しやすくなり、人と人(地域と地域)が物理的にも心理的にもまとまりやすくなったという面もあるかもしれません。

紅葉会は消えたけど、消えなかった紅葉が丘

戦後の町内会

戦争を支えていたとして、戦後、GHQは町内会活動を禁止。1947年(昭和22年)、町内会は廃止されました。しかし、たとえば防犯・防火を名目とした組織として町内会・自治会のようなものはそのまま存続。1952年(昭和27)、サンフランシスコ講和条約(対日講和条約)により、この禁止も解かれ、町内会は地域組織として復活しました。

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こちらは1961年(昭和36年)当時の目黒区町内会一覧です。中四東町会、中四西町会が該当エリアの町会でしょうか(ここでの中四という表記は中目黒四丁目を省略している可能性も)。

そして1966年(昭和41年)から1968年(昭和43年)にかけ、目黒区中央町、目黒区中町が誕生します。

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いま現在、町会・自治会はこのようになっています。紅葉が丘エリアの大半は中町東町会で、もしかしたら一部は中央中町会かもしれません。

紅葉が丘への憧憬

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紅葉が丘本通り。左手から右手に向かって傾斜しているのが写真でも見て取れる

結局、紅葉会という自治組織は公的資料上は1932年(昭和7年)~1938年(昭和13年)、6年間しか存続していませんでした。

でも。

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1947年(昭和22年)に創立した目黒区立第五中学校の校歌に「紅葉ヶ丘」が登場します。戦前の紅葉会がなくなって約10年経つのにです。

もっと後に建ったであろうアパートにも「紅葉荘」「もみじ荘」といった名前がつけられています。

今回、紅葉が丘・紅葉会を調べるにあたり、「めぐろの昔を語る」に目を通したのですが、驚きました。紅葉が丘・紅葉会に関して、4ページにも渡って証言が掲載されています。しかも、この上なく詳細に具体的に。こんなエリアは他にありません。

これはどういうことかというと、それだけ紅葉が丘という地域名に愛着のある(あった)人が多いからでしょう。ということはすなわち、新たにこの地へやって来た住人たちにとって、紅葉が丘・紅葉会の存在がとても大きかった、「ここを故郷にするんだ」そんな強い思いを持って、紅葉が丘の先達はこの地に根を下ろしたということだと思います。

たった数年しか存在していなかった紅葉会になぜかくも興味を惹かれるかというと、まさにそこなのです。

他所からやってきた新参者が先住者に交じって街を形成していく――当時のこの界隈という話に留まらず、今の学芸大学や祐天寺でも同じような光景を目にすることができます。古くから住まう人もいれば、この地へ新たにやって来る若者たちもたくさん。

そういう意味では紅葉会は界隈の町のあり様を象徴しているかのようにも思えます。

そういえば。

油面という行政区名もなくなりました。けど、油面という言葉は各所に残っていますし、「油面」という地名に対する住人たちの愛着もとても強い。失われた地名への愛着・憧憬――大きな谷で隔てられていた紅葉が丘と油面でしたが、いま見ると何だか似ているような気もしなくはありません。

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