
約65年前の環七の動画
この記事は東京都公式Youtubeチャンネルによる動画「昭和の東京シリーズ 第5回 車載カメラが捉えた昭和の東京 環状七号線(昭和36年(1961年))」を現在の風景と比較しつつ紹介するものです。
- 環七の南千束交差点から上馬交差点あたり(大田区・目黒区・世田谷区)になじみのある方
- 歴史(古道・庚申など)に興味のある方(暗渠マニアも?)
- 目黒区の行政に関わる方
そんな方が読むと楽しめるかもしれません。
筆者は学芸大学に住んでいて、このブログを読む方も学大在住の方が多いので、学大視点になっていることも多々あります。
「昭和の東京シリーズ」の背景
昭和の東京シリーズ 第5回 車載カメラが捉えた昭和の東京 環状七号線(昭和36年(1961年))
東京都公式Youtubeチャンネルの「昭和の東京シリーズ」からの一本です。映画館で上映されていた東京都による都政の広報映画「東京ニュース No.125 環状七号線」(1961年6月)が元になっています。企画:東京都、製作:東京都映画協会、映像提供:公益財団法人東京と歴史文化財団・東京都江戸東京博物館。
参考/江戸東京博物館:司書のオススメ紹介図書(2017年度)
動画内容の背景に関してです。戦後復興から車社会となり、道路渋滞が大きな社会問題となっていました。そこで交通量を分散させるため、都心部をグルっと囲うような環状線の建設に特に注力されます(※)。そのひとつが環状七号線(環七)です。
※環状線の建設計画自体は戦前、大東京道路網計画(1927年)からあり
この動画が映画として放映されたのは1961年。3年後の1964年には東京オリンピックが開催されます。オリンピックに向け、いよいよもって環七の工事はピッチを上げようとしていた、そんな時代の映像です(※)。
時代も時代ですから、ここまで来てもまだ「立ち退かない!」などとゴネてる人も多かったことでしょう。東京都としては、
「ほら、新しい幹線道路ができたら、こんなに便利になりますよ」
「こんなに進んでるんですから、もう抗うのはやめましょうよ」
「みなさん協力してくださいね」
そんなことをアピールするために制作したんじゃないかと推察します。もちろんはっきりとそうは言いませんが。
※東京湾から北区・足立区あたりまでは1964年に開通。足立区(鹿浜橋)以東は1985年に開通し、環七は全線開通となった
動画の概要と動画を楽しむための予備知識
10分程度の動画ですから、最初から全部見ていただきたいのですが、私たち学芸大学住人にとって見ごたえがあるのは2:18から3:55まで。これが実に面白い。たった2分半ほどの映像ですが、語りたいことが多すぎます。

最初に、この動画を楽しむための予備知識として、この地図を把握しておいてください。さすがに「環七って何?」「南の交差点ってどこ?」という状態では、まったく楽しめないと思いますので。
動画は中原街道と環七が交差する南千束交差点からスタートし、古道の六郷田無道(六郷街道)で工事区間を迂回、大岡山小前で環七と合流して、どんどん北上。環七・龍雲寺交差点の先、野沢銀座商店街の様子を見つつ上馬交差点へ向かい、国道246号を越えて(私たちにとっての)ゴールとなります。
おおよその流れを掴んだところで、具体的に見ていきましょう。
まだ整備が進んでいなかった環七(南千束~南)

2:18 中原街道と環七が交わる当時の南千束交差点。

こちらは動画キャプチャと似たようなアングルで現在の南千束交差点を撮ったものです。

これより北は上馬交差点まで、まだ環七が整備されていません。車一台がギリギリ通れるような未舗装の道が続きます。

3:05 第一の注目ポイントです。おそらく、この交差点は現在の南交差点付近でしょう。なぜそうとわかるか。

この交差点はとても特徴的です。きれいにピシッと道路が交わっていません。ギャップがあります。

これは1950年代の南交差点付近の航空写真です。道路の交差具合・ギャップがまったく同じです。松葉鮨があるであろう角も斜めで同じ。また、先が左にカーブしているのも同じ。ここを南交差点と考えていいでしょう。

こちらは現在の南交差点です。どちらかというと右手(東側)に大きく拡張されていきました。


先ほど航空写真で見た左カーブです。現在は単に環七から斜めに入っていく路地にしか見えませんが、本当はこちらが本筋でした。あとから環七ができ、枝道のごとく見えています。
カメラはこの"カーブ"を行きます。
環七敷設工事を迂回すると衝撃映像(南~柿ノ木坂一丁目)

3:11 ナレーションに注目です。
「この辺で環状七号線は、池上から堀ノ内へ抜けた、昔の六郷街道に沿って進みます」

つまり、この図のように工事区間を少し迂回しているということです。
そして! (私にとって)当記事の最重要ポイントです。

3:14 「庚申供養塔」と刻まれた角柱の庚申が映ります。

道路が整備される際、道端に据えられていた庚申や地蔵、稲荷などが他所に移設されるということがよくあります。
たとえば、のちほど詳しく見ますが、南交差点付近にあった庚申は環七の拡張整備に伴い、高木神社(碑文谷八幡宮のすぐそば)へ移設されました。同じ環七がらみでは、二本松(野沢交差点近く)の道標を兼ねた地蔵が龍雲寺境内に移されました。

また、目黒通りの整備に伴い、油面交差点付近にあった油面高地蔵尊が油面地蔵通り商店街に移設されたのはご存じの方も多いことでしょう。
では、この映像に映っている庚申供養塔はそもそもどこにあって、そして現在もそこにあるのか、あるいはどこかへ移設されたのか……。
結論を先に書いておきましょう。

この庚申は上の図の赤いラインが直角に曲がる地点(切石ノ辻)にありました。そして、そこから西へ250mほどいったところにある帝釈堂に移設されています。
移設されたことを知っている方はいても、移設前の様子が動画で残っているということは、目黒区はもちろん、庚申マニア・古道マニアでも気づいている人は皆無だと思われます。詳しくは後ほど。
なお、庚申の背後には真っ白な大根がいっぱい積まれています。これだけきれいな大根がこんなにもあるということは、近くに洗い場のようなものがあったのでしょうか。
すぐ裏手には洗足池の水源のひとつでもある清水窪がありますし、界隈には湧き水がたくさんあったと聞きます。環七が整備されているという1960年代になってなお、まだ湧き水が利用されていたんでしょうねぇ。そんなことにも興味を惹かれます。
さて、先に進みましょう。

映像には映っていませんが、このように大岡山小前交差点で六郷田無道(六郷街道)と環七が合流し、カメラは再び環七未整備区間を北上します。そして、目黒通りとの交差点を過ぎると……。

3:18 なーんか見覚えありません?w とても特徴的な枝分かれです。角に地蔵か庚申のような祠があります。

これは柿の木坂一丁目交差点でしょう。昔、この角には庚申(or地蔵)があったという記述を郷土史で読んだ記憶があります。
普段、何気なく通っている場所の65年前の映像があるだなんて、なんだか感動的じゃないですか?
消えゆく直前の野沢銀座商店街(龍雲寺~上馬)

3:28 いきなり賑わいます。野沢銀座商店街です。

正確な場所はわかりませんが、ガスト世田谷野沢店のあるあたりかなぁと想像してます。いずれにせよ、かなり上馬交差点寄りです。

ここも基本的には右手(東側)に大きく拡張されました。現在の写真に重ねるようにして、当時の野沢銀座商店街をザックリとイラスト化するとこんな感じでしょうか。

ところで、当時の野沢銀座商店街は都内でも屈指の賑わいだったそうです。他地域の商店会が視察によく訪れていたのだとか。
しかし、環七の開通によりそれまでのような商店街はなくなります。道路拡張により移転を余儀なくされた商店の一部は龍雲寺通りへと移転し、龍雲寺商店会を組織しました。そして時代は進み2019年、もともと環七方面にあった野沢銀座旭会と龍雲寺商店会は合併し、野沢龍雲寺商店会となりました。

3:42 視点が逆になり、北へ向かいつつも北から南を向いています。

映像では判然としませんが、左側は手前(今の上馬交差点角)から進藤商店(精肉店)、八百屋、鈴木金物店(その後、三軒茶屋 文化デパート(のちのブンカ名店街)へ移転)、扇屋洋品店(龍雲寺バス停前へ移転)、中華料理店、そば 大むらがありました。
右側は手前から上馬交番、津軽生果(画像中の「生菓」は誤字)、魚屋(魚常)、寿司屋(つるや寿司? のちに環七の反対側に移転?)、旭デパートがありました。

夜の野沢銀座商店街。こんな風にネオンが輝いてたんですねぇ。いい風情だ。なんとなく東南アジアのどこかの街のようにも見えます。
国道246号には玉電(玉川線)の軌道が敷設されているのが見えます。この映像が撮影された8年後、1969年に玉電は廃止されました。

現在の上馬交差点です。バスが2台止まっていますが、映像を見る限り、野沢銀座商店街はあれくらいの幅だったのでしょうね。

3:45 玉川通り(国道246号)を越えて、私たちにとってのゴールとなります。カメラは引き続き環七を北上していきます。
1960年代の界隈の映像は新鮮
写真では60年前の風景を目にすることが時折ありますが、映像だとまた違った感じに見えます。それに、界隈の当時の映像はほとんどありませんから、とても新鮮です。
わたし個人としては特に前半部分(2:18~3:28)が1960年代ではなく、戦後間もなくのような雰囲気に感じられたのが面白かったです。そして、あそこからあっという間に変わっていくのですから、そのスピード感にも驚かされました。
だって、あの状態から3年で環七が通っちゃうんですよ? いまの補助26号線(目黒郵便局前交差点~五本木交差点)と比べてみたら、どれだけ早かったかw
「あそこって、こんなだったんだ!」
「これがあそこ!?」
そんな風に動画を楽むための一助に、この記事がなっていれば幸いです。
以上が一般の方に向けた記事です。
以下はマニア・行政の方へ向けたお話です。
帝釈堂の切石庚申

先述の通り、「この庚申はなんだったのだろう」「この庚申はどこにあったんだろう」「今でもあるのかな。どこかへ移設されてるのかな」といったことが気になりました。
そこで調べてみたところ、同じ庚申を見つけました。
南交差点から環七を100mほど北上したところで左に折れる路地があります。先ほどの映像で見た、松葉鮨のあった交差点の先の左カーブですね。環七ができる前はこれがメインストリートでした。

この道をまっすぐ行くと鉄飛坂になるのですが、坂のすぐ手前に帝釈堂という小さな祠があります。

敷地内にはいくつかの庚申があるのですが、そのうちのひとつ。

道標の庚申。切石庚申(※)とも呼ばれるそう。動画に映っていた庚申はこれでしょう。

1.「庚申供養塔」が同じ
2.「庚」の文字の右手にある石柱の欠けが同じ
逆に、動画に映っていた庚申があの角にあり、それがこの庚申だったとしましょう。
庚申にはこう記されています。

正面
右ハ目くろミち
庚申供養塔
左ハ二子の渡し

左面
武州荏原郡世田谷領衾村
文化七庚午二月吉日

右面
右ハほりの内
みち
左ハ池上
マニアの方しか読んでないでしょうから蛇足ですが、目黒道は今の目黒通りとは関係ありません。目黒不動尊と池上本門寺を結ぶ古道です。堀ノ内は言わずもがな、東京都杉並区堀ノ内にある妙法寺を指します。文化7年は1810年。庚申といえば帝釈天みたいな話はGoogle先生に任せるとしまして。

明治時代初期、陸軍参謀部により作成された迅速測図に当てはめてみると、見事ぴったり。

あの動画に映っている庚申は、六郷街道と、南交差点方面から鉄飛坂方面へと(カーブしながら)向かう古道の交差点(※)にあった。そしてそれはおそらく1960年代、道路整備に伴い、すぐ近くの帝釈堂に移設された(少なくとも1961年にはまだ元の位置にあった)。
これで間違いないでしょう。

庚申が移設されることはよくありますが、移設前の様子が動画で残っているというのは珍しいような気もします。移設前の庚申を"発見"し、胸の高まりを抑えることができません。
※昔、この四つ角は切石ノ辻と呼ばれていた。切石庚申という名前がこの辻名に由来するのか、はたまた逆に石を切って作った庚申があったから切石ノ辻と呼ばれるようになったのかは不明
おまけ:高木神社の子ノ神庚申

この庚申があった場所(切石ノ辻)から南東へ約300m、現在の南交差点も当時の最重要地点でした。ですから、道標・庚申がありました。


その庚申は南交差点からほぼ道一本、碑文谷八幡宮近くの高木神社に移設されています。当時の地名から子ノ神庚申とも呼ばれています。

正面
北
武州荏原郡
庚申講中 當所
碑文谷村
目黒
道
二王尊

背面
南
丸子
池上 道
新田
冨岡●
村地(?)●
●

右面
西
九品仏
道
二子
●
●
●

左面
東
品川
大森 道
天明八戌申十二月吉日
冨岡平蔵
冨岡善五郎
冨岡金蔵
二王尊は仁王尊、円融寺のこと。天明8年は1782年。江戸三大飢饉のひとつ、天明の大飢饉(1782年~1788年)が発生した年です。

迅速測図に当てはめてみます。こんな感じで建っていたのでしょう。

ところで、子ノ神庚申の上面は穴がボコボコと開いています。


切石庚申の上面・背面にも窪みがあります。
これらはきっと盃状穴(はいじょうけつ)でしょう。世界各国で見られる、日本でも縄文時代からあった、ある種の信仰です。岩や石、これらでできた石造物に彫られている穴です。穴を彫ることで、何かを祈願するのです。
そこに込められる思いはさまざまで、魔除け、安産(子孫繁栄)、病気の治癒などが祈願されていると言われています。
65年前、この地がどうだったかなんて、どーだっていいっちゃあどうだっていい。でも、ちょっと知ると、なんだかちょっと好きになりません? そして気になるからもっと知りたくなり、知るともっと好きになる。
こうして、住んでいる地での生活がより楽しくなります。少なくとも私はそうでして。
みなさんはいかがですか? この動画を見て、「もうちょっとこの地のことを知りたいな」と思ったり、「住んでるこの地域がもっと好きになった」と思ってもらえると嬉しいです。そして、その地での生活がいっそう楽しくなれば、なによりです。
好きになると知りたくなる。
知るともっと好きになる。
恋愛もそうですよねw