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九州ラーメン銀嶺に行って来た

武蔵小山駅から徒歩5分。後地(うしろじ)交差点近く、ライフ武蔵小山店の目の前に九州ラーメン 銀嶺(ぎんれい)というお店があります。街中華と言うかラーメン屋と言うか。
1930年(昭和5年)、長崎県長崎市鍛治屋町でレストラン 銀嶺が創業しました。今なお続く名店です(現在は長崎県長崎市立山の長崎歴史文化博物館内)。
1940年代後半から1950年代前半ごろ、この銀嶺の味に感銘を受けた方が福岡県大牟田市に銀嶺というラーメン屋を創業しました。ここで修行していたのが武蔵小山の銀嶺の店主です。
店主は福岡県大牟田市の銀嶺で38歳まで修行。その後、上京して品川区二葉で6年、武蔵小山に移って来て33年やってきたそう。どうも武蔵小山に移転してから銀嶺という店名になったようなので、この銀嶺は1986年ごろにオープンしたということになります。
以上はネット情報をまとめました。正確性は保証しません。
武蔵小山の名物店。いつか来てみたいと思っていて、今回、武蔵小山へ来たついでに、連れと少し遅めの昼食を取りに行きました。

女将さんはテーブル席で食事中。私たち以外のお客さんは全員が常連さんでした。お酒を飲みつつ、ニラ玉やラーメンを食べています。


メインメニュー・九州ラーメンは550円、餃子は350円、チャーハンは550円。かなりの安さです。トンコツカレーライスが誘惑してくるのですが、初訪問なのでオーソドックスに攻めてみます。私は九州ラーメンと餃子、連れはチャーハン半ラーメンセットを注文しました。

カレンダーには「大井製麺」と書かれています。おそらくは大井製麺の麺を使っているのでしょう。
大井製麺は株式会社佐藤商事が運営する、中華麺や餃子の皮などを製造・販売する製麺所(製麺部門)です。住所は東京都品川区二葉2-18-5。銀嶺店主が上京して最初に店を構えたのも品川区二葉。近くだったので大井製麺の麺を使うようになったのかもしれません。

品切れのメニューをペンとイレーザーで隠す。こういうのがそそるんです。

奥(写真右手)には五右衛門風呂サイズの釜。さすがにこれはもう使ってないでしょう。けど、この釜でスープを炊いていた時代があったんだよなぁ。
マスターは熟練の手つきで餃子を包み始めました。包み終えると熱したフライパンに並べ、右手の寸胴からスープをフライパンへ。ほぉ、スープを使って蒸し焼きにするのか。福岡あたりではよくある手法なのかな。
続いてチャーハンに取りかかります。目の前のホワイトパウダーを惜しみなく鍋に投入。チャーハンをおいしくする街中華の黒魔術。
手を動かしながら、大将は常連さんと雑談。競馬か競艇の話かな。少し高めの渋い声。優しい口調。下がる目じり。傍で会話を聞いているだけですが、大将の人柄がとてもよくわかります。みなさんに慕われてるんだろうなぁ。いい雰囲気。

チャーハンは黄身と白身が完全に分離。白身はほぐれていません。いまネットで調べてみたのですが、ここまで白身が固まっている例はありませんでしたが、おしなべて黄身と白身はざっくりとしか混ぜられていませんでした。
食感や味わいに変化を出すためなのか、あるいは意図はなくたまたまこうなったのか。真相はわかりませんが、こういうのに愛おしさを感じてしまうのです。
しっとり系のチャーハンでした。卵だけではなく調味料にも偏りがあります。フライパンを振り、オタマを叩く力が弱くなってらっしゃるんだろうなぁ。バラつきのあるチャーハン。けど、これが何とも奥深い。

餃子の皮は厚めでプリッとしています。餡がみっちり。こういう店によくありがちな水っぽさ、青臭さが一切ない。変な甘さもない。シンプルながらもおいしい餃子です。

こちらが九州ラーメン。スープをひと口。お? いわゆる豚骨スープです。まろやかで甘味のあるクセのない穏かな味わい。おいしいし、よくまとまってます。まとまり過ぎると感じるほど。このまとまり方、この味わいは……。あまり深く詮索するのはやめておきましょう。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
「ありがとうございます」
大将が笑顔でそう応えたわけですが、カウンターの常連さんがそれ以上の笑みを浮かべていました。まるで自分が褒められたかのように。こちらもペコリと笑顔で会釈。

朗らかなマスターといい、優しい常連さんたちといい、なんだか気持ちのいいお店でした。
SHOP DATA
- 九州ラーメン 銀嶺
- 東京都品川区小山2-6-10
- -
- 公式
武蔵小山にあったもうひとつの銀嶺

昭和9年創業のコーヒー店・丸福珈琲店。大阪で創業し、現在では東京にも多くの店舗があります(東武池袋店、東急吉祥寺店、東急百貨店 渋谷本店など)。創業者は伊吹貞雄氏。1908年(明治41年)、鳥取の米問屋の三男として生まれました。
同氏は洋食レストランのシェフになるべく、21歳で上京。西洋料理店で修業をして、23歳の時(1932年?)、武蔵小山にレストラン風のカフェ・銀嶺(ギンレイ)を開店させました。
諸事情あり、1934年(昭和9年)に大阪へ戻り、丸福商店を創業させるわけですが、九州ラーメン銀嶺ができる約50年前にも同じ名前のカフェがあったのです。もちろん両者に関係はありません。たまたまです。
九州ラーメンと豚骨ラーメン
銀嶺は「九州ラーメン」と謳っています。「豚骨ラーメン」ではありません。それはなぜか。銀嶺の店主が上京してきたころ、まだ豚骨ラーメンという言葉がなかったからです。ないしは、豚骨ラーメンという言葉がまだ一般的ではありませんでした。
豚骨を使った九州ラーメンの歴史に関しては他所に譲ります。南京千両、三九、赤のれんといった店名でググってみてください。
当時(1940年代)、九州では豚骨を使ったラーメンは単に「ラーメン」と言われていました。それが当たり前のものでしたから。ことさら「豚骨」という言葉をつける必要がなかったわけです。で、東京にそれがやってきて、九州のラーメンだから「九州ラーメン」と呼ばれるようになります。
昭和50年代半ばから昭和60年代初頭にかけて(1970年代~1980年代)、東京でじゃんがらラーメン、なんでんかんでんなど豚骨を使ったラーメンがブームとなります。その頃もまだ「九州ラーメン」「博多ラーメン」という呼称が一般的でした。それがいつしか「とんこつラーメン」と呼ばれるようになります。1980年代後半から1990年代初頭にかけてでしょうか。
九州ラーメン銀嶺の店主が上京したのが1980年ごろ。現在地に銀嶺をオープンさせたのが1980年代半ば。上記のような歴史を見てみると、銀嶺が「九州ラーメン」と謳っているのもうなずけます。
参考/新横浜ラーメン博物館:とんこつラーメンは実は、造語であった。
後地・朝日地蔵尊・品川用水の関係

武蔵小山駅から徒歩5分のところにある後地交差点。ライフ 武蔵小山店や清水湯のある交差点で、商店やスーパーがあるため、とても賑わっている一帯です。九州ラーメン銀嶺も後地交差点にあります。
後地交差点を中心として放射状に親友会通り商店街、京栄会、富士見通り睦会という3つの商店会が伸びていて、各商店会に属している商店の一部は後地商店連合会という商店会も運営しています。
この後地交差点がやばいんです。面白すぎる。
目黒道と碑文谷道が交わる辻

昔、武蔵小山駅は田畑のど真ん中でした。民家があったのは後地交差点や三谷八幡神社、平塚橋のあたり。なぜ後地交差点に民家があったかというと、ここが大いに賑わっていたから。
池上本門寺から瀧泉寺(目黒不動尊)までの古道・目黒道(もちろん現在の目黒通りとは関係なし)。品川宿から円融寺までの古道・碑文谷道。両者が交わる交差点が現在の後地交差点です。名勝へ続く道がここで交わっていたのです。
昔は煤団子の辻とも呼ばれていました。煤団子(すすだんご)を出す茶屋があったからです。また、地蔵の辻とも呼ばれていました。地蔵が建っていたからです。その地蔵が朝日地蔵尊。
朝日地蔵尊と道標


1667年(寛文7年)、戸越村(武蔵小山の一帯)の念仏講員16名によってこの辻(交差点)に地蔵が造立されました。
浄真寺(九品仏)を開山させた僧でもある珂碩/かせき(1618年~1694年)が増上寺へ向かう途中、この地蔵にさしかかったちょうどその時に日が昇り、この地蔵を朝日地蔵と名付けました。安産・厄除け・子育ての御利益があると言われています。

1789年(寛政元年)、朝日地蔵尊の隣に道標が建てられました。目黒不動尊(瀧泉寺)と碑文谷仁王尊(円融寺)への行き先を示したものです。
もともと、朝日地蔵尊と道標は道の反対側にあったのですが、昭和31年、道路改修のために現在地へと移動されました。ですから、道標の指す方向は現在、逆になっています。
目黒不動尊、円融寺、品川宿へと向かう人たちで賑わっていた後地交差点。歴史を辿ると、なんとも面白くないですか?
けど、話はここで終わりません。ここからアクロバティックに話が展開します。私の妄想によって。
品川用水(戸越用水)の歴史

戸越公園に大きな池がありますよね。あれは熊本藩主細川綱利の弟・細川利重が細川家下屋敷の庭内に作った池です。この池を作るために玉川上水から引いてきたのが品川用水。池を作るためにここまで開削するとはw
1663年~1664年、細川利重が仙川用水から分水を受けて水を引きます。のちの品川用水、当時は戸越上水です。
玉川上水(境分水口)~仙川用水(野川分水口)~戸越上水~細川家下屋敷
こんなルートです。
1666年、戸越上水が廃止されます。庭内の湧水でこと足りたためか、水路の維持費が莫大なものとなったためと考えられています。「細川よぉ、贅沢しすぎちゃうか?」と幕府から目をつけられたという説もw
ところが、品川領二宿七ヶ村(北品川宿、南品川宿、戸越村、上蛇窪村、下蛇窪村、桐ヶ谷村、居木橋村、大井村、二日五日市村)がこれを灌漑用水として利用したいと要請します。
「せっかく水が通ったんです。このままなくすのはもったいない。わしらの田畑に使わせてくださいな」
と。
1667年にこれが許可され、1669年、水路を拡幅するなどの工事が行われました。これにより名称も品川用水となります。
それなりに品川用水は灌漑用水として役に立ったようですが、盗水などの事件も誘発しつつ、1930年代から1950年代にかけて暗渠化されました。
以下は1940年ごろの描写です。
(※46号方面から南東に向かって)その少し先が地蔵ノ辻分水口である。辻は十字路となつて居り、左角の店先に「右目黒不動尊、左碑文谷仁王尊」と大書深刻した石標が建つてゐる。江戸以来、辻の道しるべを便りに参詣の善男善女は、いかばかり多かつたであろう等と思へば、唯見る無心の石標も此の地の大功労者と拝まれる。左手には地名の起源をなす朝日地蔵堂が水路に接して建ち、堂の背後に紅葉の老木とそれに續いて交番(後地派出所)が在る。地蔵堂前の分水口水路は汚水滞留して水泡浮び、臭気を放つこと甚だしい。
出典/品川用水沿革史(昭和18年・品川用水沿革史編集委員長)
朝日地蔵尊と品川用水に関係が!?
さて。すごいですよ。年代順に並べてみます。
1666年 戸越上水が廃止される
1667年 戸越上水沿いに地蔵が造立される
各村の要請により灌漑用水として利用することが許可される
地蔵が造立されたのは戸越上水が廃止された直後だったのです!
目の前にあるこの用水を灌漑用水として使いたい。旱魃がなんとかなってほしい。雨が降ってほしい……。
そんな願がかけられ、この地蔵が建てられたとしても、なんら不思議はありません。あるいは、許可が下りたことに対する感謝が込められていたのかもしれません。
もちろん講によって地蔵や庚申塔が造立されることはよくあること。けど、当時の状況を思い浮かべると、あの地蔵を建てた人たちの思いが伝わって来るようにも感じます。
後地という地名

後地(うしろじ)という地名がいつからあるかは不明ですが、明治末には字名として使われていました。
この後地という地名の由来に関しては、wikipediaにこう書かれています。
この分岐点は「武蔵の辻」「煤団子の辻」などとも呼ばれていた(現在は「表通りの地蔵堂の後ろの土地」に由来するという後地交差点(うしろじこうさてん)として名をとどめる)。
けど、「表通りの地蔵堂の後ろの土地に由来する」の根拠・出典をwikipediaは明記していません。
うーん、どうなんでしょう。しっくりと来ません。
まず、当時の周辺の地名を並べてみます。
戸越、谷戸、小山、山谷/三谷、平塚、向原……。ほとんどが地形をもとにした地名になっています。ここだけが「地蔵の後ろ」? 違和感を感じます。
さらに、後地という地域はそれなりに広範囲です。現在の林試の森公園から後地交差点あたりまでです。こんな広範囲の地名を地蔵一体に負わせますかね?w だったら、目黒不動尊の「後ろ」ということで「後地」とした、のほうが断然しっくり来ます。
あるいは羅漢寺川水系(現林試の森公園含む)の谷(谷戸)を越えた後ろの地で「後地」というのも、それならうなずける。品川用水/戸越上水の走る道(碑文谷道含む)や目黒道の裏手で「後地」といったとしてもわからなくはない。
いろいろ可能性がある中、地蔵の後ろだから「後地」というのは、かなり弱くね?w いったい誰が言い出した説なのでしょう。ソースをご存知の方がいらっしゃいましたら、お教えください。
なお、「品川区史料(十三) 品川の地名」(平成12年・品川区教育委員会)には次のように記されています。
[後地](うしろじ)
明治末の地図に記されている字名で、現在「後地小学校」にその名が残されている。
「後」には(1)裏・背後、(2)山などの陰になった所、(3)時間的に「古い」等の意があり、南品川宿の場合には、東海道の裏道という意味で「後地町」と名付けられていた。
戸越村の場合には、基点となる鎮守や街道が近くに存在していない。地形的には(2)の「山などの陰」の意味とも考えられるが、(1)の「目黒不動尊」の背後という意にもとれなくもないが、不明である。
現在の小山一丁目から二丁目一帯の呼称であろう。
戸越方面、品川方面へと分かれる重要な用水路の分岐点。目黒道、碑文谷道という主要路が交わる場所。
昔からの要所で、今なお多くの人が行き交う後地交差点に、なんだかロマンを感じるのですが、まあ、いつものように長くなりましたね。すんませんw