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谷戸前川(学芸大学・祐天寺・目黒)の暗渠を巡ってみよう!(3/3)~謎だらけの学大の川を下ってみた

目次

祐天寺から目黒へ川下り/暗渠の基礎知識(1/3)
第一章:谷戸前川の基礎知識
第二章:祐天寺(目黒区中町)から始まる谷戸前川
地形図、古地図、航空写真で見る学芸大学の川(2/3)
第三章:地形図で見てみる
第四章:古地図で見てみる
第五章:戦前の航空写真で見てみる
第六章:地形図、古地図、航空写真を見てわかること
謎だらけの学大の"川"を下ってみた(3/3)
第七章:学芸大学(目黒区中央町)発の谷戸前川を下る旅
第八章:谷戸前川を改めて振り返る

第七章:学芸大学(目黒区中央町)発の谷戸前川を下る旅

暗渠(あんきょ)とは地中に埋設された川や水路のことで、このシリーズの最初に見た祐天寺発の谷戸前川はまさに暗渠です。一方、この記事に登場するのは基本的には埋められた川跡。正確には暗渠と言えないものも含まれています。

ただ、おそらくは暗渠や川跡にそれほど興味のない方も多く読まれると思いますので、厳密さよりわかりやすさを採り、言葉を一緒くたにしています。その点だけご了承ください。

さて、今回は目黒区中央町というか鷹番というか、そのあたりから川があったと思しき谷を下っていきます。

第七章その1:学芸大学の谷戸前川の水源付近

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まずは駒沢通りから。一応、ここから旅を始めていますが、ここより北に水源があった可能性もゼロではありません。ニッポンレンタカー周辺、その奥の大きな駐車場あたりも怪しいといえば怪しいのですがw

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(16)駒沢通りの北側、パン屋「La Boulangerie Pure(ラ・ブランジェリー・ピュール)」の前から撮影した風景。赤茶色のマンション、シャンポール学芸大学の右手がバス通り。昔、品川用水という川が流れていました。

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(17)信号を渡ると、このようなY字路に。右へ行くとバス通り=品川用水、左へ続く路地が谷筋です。

シャンポール学芸大学が建っている場所も怪しいw けど、ここに水源があったかどうかは不明です。

なお、赤白の縞の柵は暗渠や川とは関係ありません。暗渠であることを示唆する暗渠サインっぽくも見えますが、おそらくは単に地権者が(あるいは地権者の要請により)駐輪をさせないために建ててるだけでしょうw

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(18)バス通り方面へはこんな道が続いています。

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バス通りから見るとこう。手前に向かって、そして右に向かって地形が下ってます。

では、戻りまして。

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(19)先ほどの路地を入ったところ。左・駒沢通り方面から右手へ道がかなりバンクしています。正面、白いタイル張りのマンション付近は、先日見た地形図の影(地形図中の矢印)があった地点。あの影はこのあたりが窪地であることを表してたのでしょうか。

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(20)そのすぐ先にも大きな影が写っていた地点があります。けど、外見上はわかりません。右手のお宅の庭あたりがちょっと窪んでるんですけどね。とりあえず、この付近を学大発・谷戸前川の水源候補1としておきます。

ところで、「東京ぶらり暗渠探検」というムック本にはこんなことが書かれています。

さらに上流部は、品川用水の影響、もしくは人為的な引水が行われていたようで、痕跡をたどると目黒区鷹番までさかのぼれる。

さて、水源がどこかにあったのか、この道に川は流れていたのか、川があったとして、品川用水に接続していたのかどうか……。

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(21)路地を進むと都道420号線にぶつかります。東横線と交わる地点でもあります。

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(22)東横線を突っ切るように真っ直ぐ行った地点がここ。「おにぎり すずき」の隣の筋です。

前の記事で見た通り、「大東京区分地図 三十五区内 目黒詳細図」(昭和8年)には、このあたりから溝渠が描かれていました。

路地の先はL字に曲がっています。古地図を見るとわかるのですが、昔はこんなに鋭角に曲がっていませんでした。緩やかなカーブを描いています。区画整備に伴って、スクエアになっていったのでしょう。

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(23)L字を右に折れるとこんな風景なのですが、いまいちピンと来ませんよね。あっちから見てみましょう。

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これなら見覚えのある方も多いはず。「BOOK AND SONS」のT字路です。奥に白い帽子をかぶったおっちゃんがいますよね。ひとつ前の画像はあのあたりから撮ったものです。

実はこのあたりに水源があったという説もあります。確かに地形図を見ても、おっちゃんの右手のブロックはポコッと窪地になっていました。これを水源候補2とします。

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(24)「BOOK AND SONS」から東、これから進む方向へカメラを向けます。道がクネクネ。そして左へバンク。いかにも川が流れていた感じがしますねぇ。

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(25)少し進むとこんな場所に出ます。左へ向かって下っているのがよくわかります。

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(26)いやぁ、いい景色だ。左手は旧目黒区立第六中学校(以下、旧六中)。「大東京区分地図 三十五区内 目黒詳細図」(昭和8年)からすると、この道路の左側を川(溝渠)が流れていました。

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これは逆から見た写真。旧六中方面へL字の路地が続いています。見応えのある一帯ですね。

学芸大学発の谷戸前川の水源(候補)付近を探索してきました。線路を越えた先には溝渠はありましたが、線路以西にも水は流れていたのでしょうか。もっと昔、列記とした川がここに流れていたのでしょうか。流れていたとして、水源はどこだったのでしょうか……。

興味は尽きませんが、先へと進みます。次は旧六中から始まる川下りです。

第七章その2:旧六中付近

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出典/目黒区立図書館>目黒資料ページ>荏原郡目黒村全図

ここから「荏原郡目黒村全図」に描かれている"川"を見て行くのですが、便宜的に川に名前をつけます。祐天寺発の川をA、学芸大学発・北側の川をB、南の川をC、AとBが合流した後の流れをDとします。

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"川"を現在の地図にプロットしました。

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(27)スタートは旧六中の北側。不思議な形をした池のようなものがあった地点。

池のようなものの周りは野原、雑木林で、その周囲には畑がありました。大正、昭和と時代が進み、池や川は潰され、土地が整備され、学校が建って、その学校も2006年に廃校。今後は福祉施設、保育施設などが造られ、一部は幹線道路になります。

街はどんどん変わっていく。そんなことが現在進行形で実感できる地点です。ひじょーーーに遅緩な進行具合ではありますがw

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(28)不思議池から延びる川はこのあたりに出ていました。左手、ちょっと奥まって茶色い門扉がありますよね。あのあたりです。さて、問題はここ。古地図を拡大します。

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ちょうどここで切れてるw けど、少なくともこの古地図では旧六中部分と東の"川"がつながっていません。そして、昭和8年の地図では、もうこの不思議池はありませんでした。

この池"から"流れていたのか、この池"へ"流れ込んでいたのか。そして、どことつながっていたのか、あるいはどこともつながらず、これで完結していたのか……。形跡は残っていませんし資料もないのでわかりませんが、私は次のように想像しています。

駒沢通り方面に水源があり、そこから東へ川が流れていた。旧六中あたりにも水源があり、古地図のように南に流れていた。両者は合流し、この先で曲がり、北東へと向かっていた。古地図の川がつながっていないように見えるのは、明治時代ではすでに、北西からの流れは相当小さなもので、地図製作者が端折ったから。不思議池は大正末期あたりに埋められた、と。

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(29)そのまま東へクネクネ進むと、ここに出ます。前を横切る道は昔のメインストリート。右へ行けば担々麺専門店「四川麺条 香氣(こうき) 学芸大学店」の交差点に出ます。左へ行くと二又に分かれ、左手に行くとスーパー三和へ、右手は中町通りとなります。

「川の地図辞典」(著/菅原健二)では、川がここで右(南)へ折れ、品川用水と合流していたと記載されています。その可能性もなくはないし、現地を見ても、確かにそうだったかもしれないと思わせるような道筋ではあるのですが、これを確固として証明するような資料を私はまだ見たことがありません。どうだったんでしょうねぇ。

とりあえず、古地図に基づき、真正面へと進みましょう。

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(30)なんて素敵な路地。Cはこのあたりから始まっています。そして、建物の脇あたりを通って、建物の裏手で左(北東)へ折れていました。

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(31)これは建物の裏。住宅地と中央緑地公園の境です。側溝が延びてます。もちろん、これがそのまま当時のCというわけではありませんが。

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中央緑地公園から見るとこんな感じ。正確な流路はわかりませんが、おおよそこのあたりをこの方角に流れていたのでしょう。

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(32)側溝がやって来る様子を中央緑地公園内から撮影。このまま撮影地点の背後へと抜けて行きます。

ところで、この界隈をいろいろ見ていますと、こんなものを発見しました。

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「セントラルフィットネスクラブ 目黒」の裏にちょっとした駐輪場があるのですが、そこに井戸水をくみ上げるためのポンプが打ち捨てられていたのです。まさに、前の記事で見た戦前の航空写真に写っていた黒い影の位置。

ここで使われていたとは限りません。けど、わざわざ遠くから持って来ているとも思えない。このあたりに水脈があったことは確かですから、昔は水をくみ上げていたのでしょう。

錆び果てたこのポンプは私に「ここだよ」「ここに水があったんだよ」とささやいているように……と書くと、少しセンチメンタリズムが過ぎますねw

余談ですが、学芸大学界隈には井戸の跡がいくつかあります。そんなのを探してみるのも楽しいですよ。

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(33)中町通り沿いにある目黒区児童発達支援センター「すくすくのびのび園」。中央緑地公園のすぐ隣です。ここに「遊楽園」という釣り堀がありました。こんなところに釣り堀があったとはねぇ。びっくり。詳細は前回記事をご参照下さい。

Cは「すくすくのびのび園」の裏あたりを通り、北東方面へ向かいます。大ざっぱに言うと、現在の中町通りの一本裏(東側)付近を流れていたはずです。ただ、Cが辿っていた形跡は一切残っていません。

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(34)次にB。江戸時代の古地図では旧区役所あたりに水源らしきものが描かれていました。そして、明治時代の古地図と現在の地図を照らし合わせると、中央町二丁目バス停付近、旧区役所の南端あたりからBは本格的に一本の流れになり、三角山公園の方へ向かっていました。実はこのあたりに水源があったのですが、詳しくは後述します。こちらも川の形跡は残っていません。

関東大震災があり、宅地整備が早々に始まり(参照/目黒区>耕地整理組合)、さらに空襲があり、そして中町通りなどの太い道路ができ、川や田畑があった頃の形跡はほとんど消えてしまっています。でも、そこでなんとか川の残り香を読みとろうとするのが暗渠探索の楽しいところw

第七章その3:祐天寺裏周辺

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旧区役所から三角山公園、中町二丁目交差点あたりまでの一帯ですが、どの地図も歪みがひどい。ですから、一応、現在の地図に古地図を元にした川を書き込みましたが、この界隈の流路は正確性に欠くということをご了承ください。中町二丁目交差点以東はそれなりに正確だと思います。

なお、前の記事で見た通り、昭和8年の段階ではもうここにCは流れていませんでした。というか、正確には……まあ、これも後ほどw

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(35)三角山公園ができたのは1991年なので、川があった頃に公園はありませんでした。けど、三角山公園(となる予定の場所)の底辺をかすめるようにしてBは流れていました。そのBをまずは見ていきましょう。

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三角山公園と中町二丁目交差点(画像右の信号)の中間地点です。三角山公園からやってきたBは正面に見える建物を突っ切るようにして、画像左から右奥へと流れていたんじゃないでしょうか。

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(36)Y字になっていますが、正面の建物あたりから川がやって来ていました。そして撮影地点を通過して……。

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(37)ここもT字路なのですが、建物の右手あたりを突っ切ります。

戦前の航空写真では、この建物の裏あたりに黒い影がありましたね。なんだろうなぁ。ここで流れを溜めて、Aとの合流前に緩衝を設けようとしたのか、洗い場のようなものか、単なる影か……。現地は住宅密集地。当時の"影"を偲ばせるようなものは見つかりませんでした。

いずれにせよ、この裏で祐天寺方面からやってくる暗渠にぶつかります。

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(38)祐天寺二丁目交差点の暗渠スタート地点から真っ直ぐ来たところ。暗渠がわずかに左へ折れてますよね。このあたりがAとBの合流地点です。右手からBがやって来ていました。

足元を見ると、それはそれはもうね。

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数度に渡ってコンクリート、アスファルトで固められた形跡が見て取れます。

川に沿うようにして埋まってる護岸があって、川を跨ぐように棒状のコンクリートも並んでいます。溝渠に渡されていた梁でしょう。溝渠を補強するために、つっぱり棒のごとく溝渠の両岸を支えていました。橋代わりにこういうものを川に渡すこともあるみたいですが、にしては細いですしね。面白いなぁ。

ひとつ注意が必要です。確かにAとBは合流していました。けど、Bは農業用水のようなもので、しかも昭和初期にはもう失われていた"川"。コンクリで護岸されたふたつの川がガッチリと合流していた、というわけではありません。

さて、そのまま目線を前にやりますと……。

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奥に赤い門扉が見えます。あのあたりで暗渠と道路が交差するのですが、実は、Cが右からやってくる合流ポイントです。いやあ、いい暗渠スポットだ。

では、Bとほぼ平行して流れていたCを見ていきましょう。

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(39)面白いですねぇ。当時の風景がそのまま切り取られているかのような木立ち。右奥からやって来たCはここで、木立ちをかすめるように中町通りを横断。左手前へと向かっていました。

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この界隈の中町通り沿いには階段がいくつかあります。けど、これらが川や暗渠と直接的に関係があるとは限りません。なだらかな丘陵地帯を崩して、宅地が整備され、平坦な通りが作られると、高低差のギャップができます。小さな崖ができるんですね。これを埋めるべく、あるいは主要道路となった通りへすぐ出られるという利便性から、階段が作られたというケースも多いはず。

まあ、川があり、谷があったから勾配があるわけで、だからこそ階段が必要になったと考えれば、無関係というわけでもありませんけどね。

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(40)中町通りを横断したCはおそらくこのあたりを通って、こちらにやって来て、

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あっち(車の背後の方)へ抜けていきました。そして、流れは東へ向かいつつ、北側のD(A+B)とも合流します。

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(41)先に合流地点を見てみましょう。前掲の赤い門扉があって、赤いコーンがふたつ、道の両端に見えます。暗渠・Dです。画像右下から画像中央に向かってCは流れていて、ここでCとDが合流していました。

繰り返しになりますが、川と言っても、現在の私たちがイメージする川とはちょっと違います。B、Cは田んぼに沿って流れていた農業用水のようなものだったはず。普通の川であれば、この合流の仕方は不自然に感じますが、Cが用水路のようなものだと思えば、こんな風に合流していても不思議はないでしょう。

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出典/今昔マップ on the web(ずれ補正)

前回見た明治時代の古地図です。A、B、Cそれぞれは判然としませんが、AとBが合流する地点からは川のような黒い筋がはっきりと描かれています。

祐天寺からAがやって来て、学大からのBと合流。そのすぐ先でCとも合流。ということは、(41)の合流地点以東は、相対的に水量が増す=川としても大きくなっていたはず。だから、太い線で川が描かれているのかもしれません。

第七章その3:山と谷の間に揺れる東端

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(42)Cは大きくカーブして再び中町通りと交わります。正確にどこかはわかりませんが、正面の建物あたりから来ていたのでしょう。流れていく方を向くとこう。

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青い自動販売機の左脇へ流れていきます。右上に上っていく坂があるのですが、その勾配を見れば、なるほど確かに谷だということがよくわかるはずです。

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(43)いい風情の路地ですねぇ。

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路地の南側は小さな坂と階段のオンパレード。斜面になっているこの一帯は、明治の古地図には茶畑と記されていました。

このあたりもそう。暗渠が好きだと、川に直結させて想像してしまいがちなのですが、そういうわけではありません。斜面に建っているから、おのずと坂になり、階段ができました。ほとんどのお宅は川がなくなってから建てられてますしね。

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(44)路地を抜けた交差点。左へ行けば祐天寺裏交差点。右へ上っていけば油面通りです。

ご覧の通り、この先、この道は上りになります。上りですから、この道を川があちらへ流れて行っていたということはないのですが、とりあえずこのまま進みます。

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今の交差点を逆から見た光景。右から左はもちろん、奥から手前に向かっても上ってますね。そして左手のマンションにご注目。すごいでしょ。1階が半地下みたいになってます。

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隣のマンションとの間はこんなになってます。地形図では黒い影ができていた地点です。大きな窪地だったのかな。

先ほどの道を上っていきましょう。

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(45)左手を見るとこう。この高低差わかります?

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下から見ると崖になっているのがよくわかります。これだけ地形が上っているということです。

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(46)Cの東端がこちら。逆から見てみます。

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なんだか妙に開けている、とても怪しげな一帯w

古地図だと右手の広場あたりがCの東端になっていました。けど、ここまで川が上って来ることは物理的に不可能です。

古地図が少しずれていて、実際は崖の下の段に川が流れていたのでしょうね。地形を加味して、古地図の川をプロットし直しました。

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水色で塗られた部分と塗られていない部分はざっくりとした標高差だと思って下さい。

階段、坂がたくさんあった(43)の路地を抜けると、(45)の駐車場へと川は流れ、(46)から北西へ少し下ったあたりまで続いていた、といった感じでしょうか。

実は、先に見た妙に開けた一帯あたり(46)に水源があって、上の段を東から西へ川が流れ、(40)(41)あたりで西からの流れと合流していたという可能性もゼロではないかもしれません。そう考えると、Cの東端がぷっつり途切れているというのも合点がいきます。でもまあ、だったら水源からすぐ北のDへと落ちていただろうし…。いやはや。よくわかりませんw

以上が、学芸大学発(駒沢通り&旧区役所)の谷戸前川の川跡巡りでした。はっきりと川の痕跡が残っているわけではないのですが、「もしかしてここに……」と想像すると何だか楽しいですねw

第八章:谷戸前川を改めて振り返る

ここで、これまで見てきた谷戸前川を改めてまとめてみます。

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それぞれの川の規模の推移。点線は暗渠化。BとCがつながっている点線に関しては後述

祐天寺発の谷戸前川(A)

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祐天寺二丁目交差点の近くに水源があった川ですが、江戸時代後期にはもう川という体をなしていなかったはず。せいぜい、ちょっとした小川。実際には、溝のようなものに生活排水が流されていたというようなものだったのではないでしょうか。

昭和に入ると公共溝渠、もっと言えばドブのようなものでした。ほとんど水は流れていなかったそうです。古くから宅地が両岸に建ち並んだということもあるのでしょう、大規模な整備は行えず、フタをされて暗渠化されました。

旧区役所発の谷戸前川(B)

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旧目黒区役所あたりに水源があり、ここから北東へと川が流れていました。江戸時代後期においては、この川がもっとも大きかったのではないでしょうか。

この一帯は谷になっていて、谷底は水田でした。Bは農業用水として利用されていたのだと思います。

大正あたりから宅地整備が急速に進みます。南から北へ向かって開発されていき、三角山公園あたりまで(B1)は大正末~昭和初期にはもう川はなく、残り(B2)もどんどん埋め立てられていきます。

鷹番発の谷戸前川(C)

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シャンポール学芸大学や「BOOK AND SONS」付近にあったと思しき水源から東へ向かっていた川(C1)は早々になくなっていたと思います。昭和初期には旧六中付近にかろうじて溝渠が走っていた程度(C2)。

この流れは中央緑地公園あたりで北東へ向かいます(C3)。この流れがいつ頃からあったのかはわかりませんが、その規模は最初から小さかったと思われます。Bと同様、近代以降は農業用水として利用されていたのでしょう。

三角山公園を越えた先(C4)は宅地開発と共にいち早くなくなり、続いて三角山公園以西(C3)も埋められます。実は、この間にワンクッションあるのですが、これに関してはまた後ほど。

以上はあくまでも私の推察です。実情はわかりません。ぜひ、このあたりの歴史や暗渠に詳しい方のご意見を頂きたいところです。

というわけで、学芸大学、祐天寺、目黒と谷戸前川暗渠を巡る旅はここで一旦終了です。

谷戸前川に限らず、学芸大学には川跡、暗渠がいっぱいあります。暗渠を巡りつつ、100年、200年という歴史に思いを馳せ、写真を撮りながら散策なんてのも面白いと思いますよ。それに、こういう歴史、地理を知り、地域のことに詳しくなると、そこでの生活がもっと楽しくなるはず。

今度の休日、谷戸前川巡りでもいかがですか?

附録:自治組織「紅葉が丘」で判明した"谷戸前川"の新ルート

「めぐろの昔を語る」(編集/目黒区郷土研究会、発行/東京都目黒区教育委員会)という本に、とてつもなく重要な資料が載っていました。

「めぐろの昔を語る」は平成5年(1993年)から3年間に渡り、約50名の目黒区民から目黒の昔の暮らしを聞き取り作成されたものです。その中で数人の方が「紅葉が丘」について言及されています。そして、これにより"谷戸前川"の新事実が浮かび上がってきました。

※検索用:紅葉ヶ丘・紅葉丘

[中島正伍さん]

紅葉が丘は現在の中町二丁目一帯の地域であり、関東大震災後他地区から移入してきた人々(主として勤労者)によって形成された新開地でした。従って目黒の他地区でみられるような、土地の旧家(地主、指導者)は存在せず、旧家の影響を受けない自治組織として誕生した(昭和六年)町会紅葉会は、当時としては異色の存在ではなかったかと思われます。

[中野まさ子さん]

紅葉が丘の住人は元からの人は少なく、殆ど震災後、土地を求め自宅を建てた人たちでした。(中略)

西側には柳の並木があり、その先は一面の芝原でした。ここではホタルが飛び交い、ホタルとりに芝原に入りました。芝の栽培地でした。

[北城峻秋さん]

現在の区役所あたりまでは一面の田圃でした。区役所付近に湧水があり、これを水源として今のバス通りに添って小川が流れていました。川の向こう側は土手でした。川にはドジョウが住み、ギン、チャンなどトンボが飛び交っていました。祐天寺方面を望めば、裏門あたりまで一面、傍目と田圃で一望千里の風景でした。

三角山は小高くなっており、樹木が繁って涼しく、夏はハンモックを吊って休む人もいました。その一角にお稲荷さんがありました。

[大西修さん]

紅葉が丘は震災後の新開地(新興住宅地)でしたから、当時では珍しい知識階級というかホワイトカラーの町でした。こういう土地柄でしたから、各戸に楓を植えるとか、町名を紅葉が丘とした等の発想が生まれたのではないでしょうか。

今の区役所あたりから祐天寺までは田圃等田園風景が広がり、川が流れていました。油面の手前を川が流れていて、こちら側が丘になっていました(紅葉が丘)。五中の向こう側にも小川があって先は目黒川にそそいでいたと思います。(中略)五中付近は芝造りがさかんで芝仙さんは有名でした。芝生の栽培に肥料として人糞をまいていましたが、そんな芝原で私達子供は取っ組み合って遊びました。

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この記事を書き終えようとした頃に、こんな資料を見つけてしまったもんだから、書き直しですわw まあ時間がかかったw

まず、これらの証言から、旧区役所に水源があったということが確定です。図の中の2mほどの川幅という説明も面白いですね。芝生にめっちゃ需要があったとか、ホタルが飛び交ってたとか、図中の「高さ2~3m位のがけ」が航空写真でも見て取れたり、とにかく興味深い証言が満載です。

けど、一番の注目点は図中の川です。三角山の下に流れている小川はそのまま北へ続いています。これがわからなかった。これはどう考えてもおかしいんです。本当にこれが正しければ、この流れはBということ。でも……。「大東京区分地図 三十五区内 目黒詳細図」をもう一度、ご覧下さい。奇しくも、この地図の発行年と証言の年代はほぼ同じです。

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方角に要注意。時計回りに90度強回転させるとわかりやすいかと

なんかおかしいでしょ? この当時、三角山の底辺方面に流れていたのは旧六中方面を水源とするCです。そして、Cはこのあたりで消えていたはず。また、旧区役所水源の川・Bの三角山以西はもう描かれていません。なのに、証言図はCがBの方へと向かっています。なんだこれは?

ここでえらいことに気付きました。関係する図版をすべてを並べてみます。

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上ふたつは大正末から昭和初期の地図。下は明治の川を現在の地図にプロット。両者に違いがあるのですが、2本だった川が1本になったと考えれば、すべての辻褄が合います。流路もピッタリ寸分の狂いなく合致。

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逆に、昭和初期の地図に明治の川の流れをプロットしました。ね? ぴったり。

どうもおかしいとは思ってたんです。Bは始点が切れてるし、Cは途中からなくなってるし。2本がこうしてつながったということなら合点がいく。

宅地整備をしていく中で、川(農業用水)は不要となりました。徐々に埋めていったのでしょう。その過程で、こうして川をある意味、減らしていったと。なーるほど、そういうことか。

ただ、住民証言によると、旧区役所水源の川のことにも触れられています。旧区役所からの流れは完全になくなっていたわけではないのかもしれませんね。あるいは、証言なさっている方にとっても70年ほど前の話。幼い頃に川の流れが変わっていたとしても正確には覚えてらっしゃらないかもしれません。

というわけで、暗渠素人が街の知識を駆使してこんな風にまとめてみましたw 暗渠マニアからするとツッコみたくなるところもあるかと思います。ツッコミ大歓迎。これを材料に正確な分析を加えて頂き、学芸大学周辺暗渠・川跡のより精緻な実態解明が進めばいいなと。暗渠好きな学大住人としてはw

以上、長々とお付き合い頂きありがとうございました。本当に読むヤツいるんかねw

情報ご提供のお願いと謝辞

旧六中や旧区役所を水源とする川を「谷戸前川」と記載している資料(平成以前)をお持ちだったり、ご存知でしたら、ぜひお教え下さい。これを「谷戸前川」と呼ぶのに相当な違和感を感じておりまして。そもそも谷戸前川という川の名前はいつ頃からあったんだろうな。

谷戸前川暗渠のおばあちゃんとお姐さん(前の記事の猫の写真)、中町通りと谷戸前川暗渠が交わる一本手前の路地の80歳を過ぎたおばあちゃん(一度別れた後、90歳を越えたお友達に聞いてわかったことがあったと走って追いかけて来てくれた)、とちの木庚申で掃除されてたおばあちゃん、旧六中前にお住まいのおじいちゃん、中町通りのガス管工事をしてた兄ちゃん(川、地層、道のことをいろいろ教えてくれた)、ありがとうございました。

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