谷戸前川(学芸大学・祐天寺・目黒)の暗渠を巡ってみよう!(2/3)~地形図、古地図、航空写真で見る学芸大学の川

かつて東京都目黒区に流れていた谷戸前川(やとまえがわ)を3回に分けて紹介していくシリーズです。この記事は第二弾。前回は祐天寺(目黒区中町)発の谷戸前川をめぐってみました。今回からは学芸大学です。「暗渠ってなに?」という方は、前回の記事からお読み下さい。

目次

祐天寺から目黒へ川下り/暗渠の基礎知識(1/3)
第一章:谷戸前川の基礎知識
第二章:祐天寺(目黒区中町)から始まる谷戸前川
地形図、古地図、航空写真で見る学芸大学の川(2/3)
第三章:地形図で見てみる
第四章:古地図で見てみる
第五章:戦前の航空写真で見てみる
第六章:地形図、古地図、航空写真を見てわかること
謎だらけの学大の"川"を下ってみた(3/3)
第七章:学芸大学(目黒区中央町)発の谷戸前川を下る旅
第八章:谷戸前川を改めて振り返る

第三章:学芸大学(目黒区中央町)発の谷戸前川を地形図で見てみる

学芸大学(目黒区中央町)発の谷戸前川に関しては正確なことがわかりません。暗渠のプロの間でも、ここは不明とされています。ですから、以下には多分に私の想像も含まれています。

この先でやることは大きくふたつ。まずは地形図と古地図、航空写真を見てみます(この記事)。これを元に実際の"暗渠"を巡ります(次の記事)。

※この記事では埋められた川跡も含め、広い意味で"暗渠"という言葉を使っています

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参照サイト/Tokyo Terrain 東京地形地図

google earthに地形図を重ねたマップです。

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同じマップにポイントを打ち込みました。前の記事で見た祐天寺からの谷戸前川跡が谷状にキレイに出てますね。そして、南西にも谷が延びています。これが今回、解明しようとしている川です。

旧目黒区役所(以下、旧区役所)のあたりに、妙な地形が見えます。窪地のような、川の浸食によりえぐられているかのような……。人工的に作られた地形ではないでしょう。きっと。

谷の西端は旧目黒区立第六中学校(以下、旧六中)あたりにも見えますが、もう少し先まで延びているようにも見えます。拡大して現在の地図に重ねてみます。

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旧六中から先、都道420号線、「器々」、そして「ラ・ブランジェリー・ピュール」のほうへも筋が見えます。また、「ワイン食堂 MATSU」あたりから北へも「く」の字に谷筋が延びています。

黒い影(矢印)はなんでしょうね。次回、現地を見ながら想像をめぐらせてみましょうか。

第四章:学芸大学(目黒区中央町)発の谷戸前川を古地図で見てみる

次に古地図を見てみます。古地図には歪み(ひずみ)があります。細かく書かなきゃいけないところは広くなり、ざっくりでいいところは間延びしたり、逆にギュッと縮めて省略されたり。ですから、ある程度の脳内変換が必要です。

第四章その1:江戸時代の古地図

私が入手できたもっとも古い地図は目黒六か村絵図(「目黒筋御場絵図」のいち部分/文化2年(1805年))。

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出典/目黒区立図書館>目黒資料ページ>目黒六か村絵図

碑文谷池、清水池へと延びる川、水源も強烈に気になりますが、今回はスルー。谷戸前川と思しき川を見てみます。該当箇所をアップにして、現在のランドマークを打ち込みました。

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西端が水源のように見えますね。正確にどこだかはわかりません。ただ、祐天寺から少し離れている、品川用水よりも北(東)、スーパー三和から南下する道よりも東ということはわかります。となると……。旧区役所あたりでしょうか。

ちなみに、このあたりから油面方面にかけては、縄文時代の油面遺跡が発掘されています。遺跡のそばに水源――なるほど、旧区役所水源説に説得力を与えてくれるようです。

参考/目黒区>油面遺跡

第四章その2:明治時代の古地図

3種類の古地図をご紹介します。

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出典/今昔マップ on the web

明治42年測図、大正4年製版の地図。

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出典/農研機構農業環境変動研究センター

明治初期から中期にかけて、参謀本部陸軍測量部が作成した「迅速測図」。土地の利用法がわかる簡易な地図です。

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出典/目黒区立図書館>目黒資料ページ>荏原郡目黒村全図

東京都逓信管理局が作成し、逓信協会が刊行した明治44年(1911年)発行の地図です。

では、旧六中あたりを拡大して並べてみます。

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旧六中に不思議な形をした池のようなものがあるという点は共通してます。

上2つの地図では谷状の地形を利用するようにして、中央緑地公園付近から北東、祐天寺裏へ、そして目黒川方面へと田んぼが広がっています。

上2つの地図には川のようなものが載っていませんが、一番下の地図には川が2本流れています。まったく違うように見えるかもしれませんが、北東へ延びて行く田んぼの形状と、下の地図の2本の川に挟まれた地帯の形状が似ていると言えば似てます。

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ざっくりと現在の地図に当時の水田、川を重ねてみました。水田となっている部分が谷。その周囲は畑です。上2つの地図の田んぼの広がり方とやっぱり似てますね。

第五章:学芸大学(目黒区中央町)発の谷戸前川を戦前の航空写真で見てみる

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出典/国土地理院>戦前の東京23区が見渡せる空中写真を地理院地図上で初公開

1936年頃の航空写真です。クリックして拡大表示される元画像は約4000×2000px、1MB。大きいのでご注意を。入手できる航空写真ではもっとも古い物かもしれません。

これはすごいです。昔の面影が残りつつも、現在の街の様子も現れ始めていて、過去と現在を結び付けてくれます。

ここでもうひとつ古地図を。

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「大東京区分地図 三十五区内 目黒詳細図」(東京地形社・昭和8年)。昭和8年=1933年ですから、航空写真とほぼ同時期の地図です。

方角がバラバラなのでご注意を。一枚目ですが、旧六中に沿って蛇行した太いラインが引かれています。これは町境を表しています。画像では見づらいですが、この太いラインの右側に溝渠と道路が書き込まれています。

では、航空写真に古地図の川をプロットしてみましょう。

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やばいなこりゃ。この章は次の記事と併せてお読み頂くと、よりわかりやすくなると思います。

(イ)この古地図には旧六中までの路地に溝渠が描かれています。始点は定かではありませんが、とりあえず東横線の線路、都道420号線あたりから青いラインを引いてみました。

突如として溝渠ができたとは考えにくい。これまで見てきた古地図では、掲載するまでもない小さな溝渠として端折られてたのでしょう。そして、この流れは東の"川"につながっています。この筋にお住まいの80歳を優に越したと思しきおじいちゃんに話を聞きました。間違いなく、この道に川があって、中町方面に向かって流れていたそうです。

旧六中のグランドにあった不思議な形をした池、そしてそこからの流れはこの古地図には載ってませんね。航空写真にも見当たりません。大正~昭和初期にかけて埋められたんでしょうね。

(ロ)現在、「セントラルフィットネスクラブ 目黒」がある場所の裏手に妙な黒い影があります。水? なんでしょうね。次回、現地で確かめてみましょう。ちょっと面白い物があったんですw

(ハ)いやぁ。まじっすか。これは知らなかった。すごいですよ。ここ、釣り堀だったんです! 「遊楽園」という釣り堀。すぐ隣は川ですし、水源もいろいろあったでしょうし、こういうのを利用して、釣り堀を作ったんでしょうね。これも次回、見てみます。

(ニ)2本の内1本、南側の流れは地図上ではここで途切れています。もうそろそろ"川"が不要になってきた時代なのかもしれません。

(ホ)旧区役所あたりから流れ始めていた北側の流れは、地図上ではここから描かれています。航空写真を見ると、(ホ)から旧区役所まで黒い筋が見えるんですけどね。これは川じゃないのかな。

(ヘ)ここにも黒い影が。南から流れてきた川がここで一度、溜まったのちに、すぐその先で祐天寺からの流れと合流していたのかもしれません。あるいは合流地点であるがゆえに、おのずとこのような水の溜まり場ができていたのか……。どうなんでしょう。

ただ、この時代になると、もう祐天寺二丁目交差点からの流れはほとんどないようなものでした。地図にも描かれていません。

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とはいえ、まったく何もなかったかというと、そういうわけでもありません。暗渠沿い(まさにこの合流地点)にお住まいのおばあちゃんに話を聞いたところ、小さい頃は川があったそうです。深さは自分の背丈より高かったと。けど、普段はちょろちょろと水が這っている程度。大雨が降ると溢れ返って、路地は水浸しになっていたのだとか。

おばあちゃんは南からの川はご存じありませんでした。古地図を見せて、「まさにここで旧区役所あたりから来ていた川と合流していたみたいですよ」とお教えしたら、驚いてらっしゃいました。

逆に言えば、おばあちゃんが物心ついた頃、60~70年前くらいにはもう南からの川は来ていなかったということでもあるでしょう。つまり、この航空写真、昭和8年の地図ができたその10年後くらいには、川はもうなかったということです。

なお、この地点が暗渠化されたのは「1960年代くらいだったかしら」とおっしゃっていました。とても興味深い証言です。目黒区の公式サイトにはこんな風に書かれています。

目黒駅から三軒茶屋行きのバスに乗り、自然園下の停留所で降りると、五差路のひとつに民家の間を縫うようにして続く細い道が目に入る。長さ約370メートルの「谷戸前川緑道やとまえがわりょくどう」である。

かつて谷戸前川やとまえがわは、駒沢通りの祐天寺ニ丁目交差点のわきから、祐天寺裏を通って目黒川に注ぐ公共溝きょだったが、昭和50年、下水道の本管とするため、ふたをされた。昭和55年になって、環境整備計画に基づき舗装し直され、緑道として区民の憩いの場となったものである。

付近一帯は、土地が谷になっていて狭いうえに、日が当たらず、湿気も多く、雑草がはびこっていたが、モザイク模様のタイルとともに、アジサイ、ツツジなどの植え込みが作られ、界わい住民の格好の散策コースに一変した。

出典/目黒区公式サイト:目黒のみち 谷戸前川緑道(やとまえがわりょくどう)

40年前に暗渠化されたという目黒区公式サイトとおばあちゃんの証言は時代が少しズレています。けど、一気にすべてが同時に暗渠化されたわけでもないでしょう。この齟齬はむしろ、徐々に暗渠化されていった、場所によって暗渠化された時代が違うということを物語っているように思えます。

第六章:地形図、古地図、航空写真を見てわかること

以上から次のように想像してみました。

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この図の流路はザックリです。変遷を見て下さい。

地形図では旧区役所あたりに妙な地形がありました。江戸時代の古地図では旧区役所のあたりだろうと思われる地点に水源らしきものが描かれています。荏原郡目黒村全図、戦前の航空写真では旧区役所あたりから川が本格的に流れ出ています。これらのことをすべて勘案し、旧区役所あたりにも水源があったと想像してみました。

大昔~江戸時代

谷の形状(浸食具合)からすると、祐天寺二丁目交差点あたりを水源とする川が東へ向かって流れていました。そして、駒沢通り付近から旧六中までの間にも水源があり、川が流れていたと推測できます。ただ、いずれもそれほど大きな川ではなかったと思います。

本命は旧区役所あたりを水源とする流れ。江戸時代の古地図に唯一記されているということからも、この川が"本流"だったのではないでしょうか。等高線を見ても、ここで谷が段になっているのがわかるんですよねぇ。ここから北東に向かって、谷が一段深くなっているんです。

いずれにせよ、これらの水源・川がいつ頃からあったのかは不明です。

明治時代

祐天寺二丁目からの川(南からの川との合流地点より上流)は、その一帯が宅地だったので、いち早く生活用水(生活排水?)として利用されていた溝渠のようなものになっていたと思われます。

中央緑地公園から延びる2本の青いラインは、この頃になると川というよりも農業用水だったんでしょうね。荏原郡目黒村全図以外の明治時代の2つの古地図に"川"が描かれていないのは、地図にするまでもない用水路と捉えられて端折られたのかもしれません。

祐天寺発の谷戸前川は生活用水(生活排水)。学芸大学発の谷戸前川は農業用水。明治時代以降の祐天寺発と学芸大学発の川はその性質を異にしていたと思われます。

大正時代~昭和初期

耕地整理法(明治42年)や旧都市計画法(大正8年)、あるいは汚物掃除法(明治33年)も関係しているかもしれませんが、こうした法律の後押しがありつつ、東急電鉄を中心とした都市開発が進み、「農地から宅地へ」という流れが加速します。田畑は宅地用に整備され、川は埋められ、または暗渠化されていきます。

ここ学芸大学でも同様です。昭和初期ともなると、川はほとんどが溝渠、言わばドブ川のようなものになり、どんどん埋められていきます。

ただ、地域事情から、川の消失の仕方には差異がありました。中町通り、旧区役所、旧六中方面は早々にガッツリと開発が入り、川は埋められ、その上に宅地ができました。一方、祐天寺二丁目からの流れは込み入った住宅街。昭和50年頃になってようやくフタをされ、暗渠化されるに留まります。

――というのが、私の推測ですw あってるかどうかはわかりません。

さて、学芸大学発の谷戸前川を巡る下準備が整いました。いろいろわからないことはありますが、あとは実際に見てみることにしましょう。次回、学芸大学発の谷戸前川を下っていきます。これがまた面白いんだわw

附録:谷戸前川に隣接していた自然園

谷戸前川の暗渠と油面通りがぶつかるあたりに、自然園の案内板が建っています。自然園とは何かと言いますと……。

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現在はバス停の「自然園下」にのみその名を残す「自然園」は、大正時代にあった自然を生かした健康増進施設です。

当時このあたりは、清流が流れ田園風景が広がる自然豊かな地域でした。農業者の風見 彦蔵は人々が都会生活を健康的に営むためには、自然と触れ合う場所が必要であると考え、大正4(1915)年頃に現在の中目黒5丁目12番から20番にあたる場所に、広さ8300坪ほどの「自然園」を開園しました。

園内には野菜やイチゴの畑が作られ、新鮮な作物を提供していました。また、走ったり寝転がったりして自由に自然に触れられる芝生の広場や、若者の憧れのスポーツであったテニスコートなども造りました。さらにヤギ牧場では当時珍重されたヤギのミルクを飲むこともできました。

目黒地域の住宅化の進行に伴い、大正14(1925)年頃には閉園となりましたが、大正時代に、新しい思想に基づく健康増進に着目した施設が開設されたことは注目すべき点です。

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現在の地図に自然園の範囲(中目黒5-12~20)を色付けしました。

自然園の真ん中を横断する道がありますよね。ざっくり言うと、ここが傾斜の境界になってます。現在、この道より北側は基本的に平坦。南側は油面通りに向かって上り斜面です。

現在、平坦になっている一帯ですが、昔はそこが田んぼでした。斜面は畑。自然園は平坦な部分にテニスコートを作ったりしたんでしょうね。テニスコートはライオンズマンション 祐天寺あたりだったんじゃないかなぁ。

図書館で見た資料には自然園の写真も掲載されていました。子供たちが芝生の上に座ってて、背後には林が広がっています。遠足のようなものでも利用されてたのかもしれませんね。また、牛もいたとかなんとか。興味のある方は、図書館でご覧下さい。

どっちの図書館に行くかだな。守屋図書館はこの谷戸前川にも近いし、蛇崩川にも近い。五本木小学校の水源もある。目黒本町図書館は品川用水に羅漢寺川。清水池から鷹番小学校方面へ川を辿るのも最高だしなぁ。どちらも暗渠的に楽しい地域w

はじめての暗渠散歩: 水のない水辺をあるく(著/本田創、高山英男、吉村生、三土たつお)

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