MEAT JOURNEY 2018

「不思義や」(学芸大学)は不思議じゃないけど不思議な感じがする、静かで落ち着いたオーセンティックなバー。甘いマールで遠い記憶を呼び起こされた夜はアンニュイでした。

学芸大学駅から徒歩1分。東口を出てすぐ、恭文堂書店の角を右折した筋に「不思義や」というバーがあります。行ってみたいとはずっと思っていたのですが、ようやく先日、行くことができました。一見でバーに飛び込むのが少し億劫になっていて。年のせいだろうなぁ。

カウンター8席ほどでしょうか。照明は暗め。

バックバーにはいろいろなお酒が並んでいるのですが、カルヴァドスとコルクのボトルが目につきます。なんだろうな。たぶんブランデーの類ではあるんだろうけど。

ありえないほど時間をかけて一杯目を思案。

「その、カリラの隣というか、ボウモアの前というか、それは何ですか?」

「ボウモアのシグナトリー(※1)です」

「なるほどぉ」

そうだそうだ。あの「S」はシグナトリー社だ。うーん、参った。やはりここはジントニックの定点観測か? あるいは……。お?

「それ、ディプロマティコですよね」

「はい」

「じゃあ、ディプロマティコをロックで。あ、おいくらでしょう」

「1200円です」

「お願いします」

バーでお酒の値段を聞くことは恥ずかしいことではありません。むしろ聞くべきとすら思ってます。値段のわからないものを注文するなんて、バーに限らず、飲食店に限らず、どんな世界でもありえませぬ。

久しぶりに飲むディプロマティコ。ベネズエラ産の超甘口ラム。まったりとしていて濃厚。大好き。

アミューズが出て来ました。リンゴ、イチゴ、ケーキの3点盛り。イチゴに垂らしているこれはなんだろう。チェリーっぽいけどな。

「これは何がかかってるんですか? チェリーのリキュールとか?」

「グラン・マルニエ(※2)とベリーのジャムです」

「なるほどぉ」

甘いラムに甘いアミューズ。いいねぇ。

BGMはレコードのジャズ(たぶん)。ボーっとバックバーを眺めながら、ゆっくりラムを飲みます。今日はなんだか気持ちがいいな。

「どうして『不思義や』っていうんですか?」

「特に理由はないと言ってはあれなんですが……。私は東北出身なんですが、ここをオープンする際、関西出身の知人が『不思義や』って名前にしておけば、関西人が面白がって入って来るはずと言うもんで」

「ここ東京ですよ? 別に関西人を狙わないでも……(笑)」

「けど、実際、関西出身の方がよく来られます(笑)」

「へー」

私より少し年上と思しき店主。なかなかな男前。

「こちらはどれくらいになるんですか?」

「17、18年くらいです」

「この界隈じゃ、相当長いほうじゃないですか?」

「そうですねぇ。ターボーさんのところが一番長いでしょうけど……。RaJ BAR(ラージ バー)さんも長いですねぇ」

TARBOW’s Bar(ターボーズバー)は1985年オープン。BAR WELL STONE(ウェルストーン)は30年ほど続いて閉店。RaJ BARはいつだろうな。いずれにせよ、確実に5本の指に入る長寿バーですね。

さて、二杯目はどうしよう。

「左端に並んでるコルクの瓶は……ブランデーですか?」

「マール(※3)です」

「マールか」

「マールはお飲みになりますか?」

「そう多くは飲んだことありませんが……じゃあ、頂こうかな。お手頃のものはどれでしょう」

「こちらは1400円、こちらは1600円なんですが、この1600円のほうがお勧めです」

「では、それをお願いします」

「ストレートでいいですか?」

「はい。というか、マールをストレート以外で飲むことってあるんですか?」

「度数が高いので、薄めて飲む方もいらっしゃいますね」

「そうなんですか。マールの度数ってだいたいどれくらいでしたっけ?」

「45度くらいですね」

「なるほどぉ」

ルイ・ジャド社のマール・ド・ブルゴーニュ シャトー・デ・ジャック1988。グラスを少し回して、まずは香りをかぎます。甘くて奥行きのある香り。幾度もグラスに鼻を近づけ香りを楽しみ、そしてひと舐め。

ああ。この感じ……。香りは記憶に残ります。香りによって記憶が呼び起こされる。

20代後半から30代前半にかけて、そりゃもう、ありとあらゆる酒を飲みまくっていました。芋焼酎とモルトがメインだったのですが、ブランデーもそこそこ。新宿だったかなぁ。よく飲んでたのは。ゴールデン街はもちろん、風林館前、上海小吃 (シャンハイシャオツー)のある一画「思い出の抜け道 新宿センター街」とかね。「バー かくれんぼ」なんてまだあんのかな。

「こちらは抜栓して半年ほどです。ようやくセメダイン臭が収まって来て、甘みが感じられるようになりました」

「いい香りですねぇ」

「正直、マールは味というよりも香り。飲み干したグラスの香りが一番ですね(笑)」

「なるほどぉ」

ここでひとつ気づきました。実は退店するまでずっとそうだったのですが、店主の方から先に話を振って来たのは、これが唯一。普段からそうなのか、一見に対してはそうしているのか、あるいは今回、たまたま私に対してだけそうだったのか。

別にそれがいいとか悪いとかということではなく、こういうのも珍しいなぁと。まあ、この辺りにお住まいですか? この辺りではよくお飲みになるんですか? どちらでですか? と、おおよそ最初の会話のパターンというのは決まっているのですが。それが煩わしいとかそういうことでもなく。

レコードから流れるBGMはジャズ。たぶん。時折、レコードを替えるのですが、レコードに針を落とした際になる「ボッ」という音が、なんだか好きなんだよなぁ。

と、ここで扉が開きました。入って来たのは前掛けをしている女性。店主とひと言、ふた言、言葉を交わして、すぐ出て行かれました。おやあ?

「もしかして、いまの方ってリカさんですか?」

「はい、ご存じで?」

「何度かうかがったことがあるんですが、けど……ちょっと……丸くなられました?」

「そうですね(笑)」

「一瞬、どなたかわからなかった(笑) お父さんはお元気ですか?」

「脳梗塞でお倒れになられて、半年ほどでしょうか、入院されてます」

「そうですか」

隣の居酒屋「久慈川」の話です。そうかぁ。近い内に、久しぶりに行ってみようかな。

人によってはもしかしたら苦手と感じられるであろうマールの独特の風味は、私の心を静め、遠い記憶と今この瞬間の風景を混ぜ合わせます。鼻腔にいつまでも残るマールの甘い香りは、どこまでもアンニュイ。

たっぷり時間をかけ、マールを飲み終えました。1200円(ラム)+1600円(マール)+500円(チャージ)=3300円。久々に贅沢な飲み方したなぁ。たまにはこういうのもね。

あっ! あああ。ここまで書いてきて、ようやく気付きました。「不思議や」じゃなくて「不思義や」か。ふう、気付いてよかった。全部、書き直しておこう。けど、なんで義?

また、ネット上には「RARO(ラーロ) 不思義や」という店名表記も散見されます。ラーロ? 看板にはそんなの書かれてなかったけどな。なんだろう。そして、18年もやっている老舗だというのに、ネット上に情報がほとんどないというのは……。ふむ、やっぱ不思議や。

ごくごくオーソドックスでオーセンティックなバーです。バー自体は不思議じゃありません。けど、やっぱりなんだか不思議なバーでもあるような、ないような。アンニュイに過ごしたい夜、「不思義や」でおいしいお酒はいかがでしょうか。

不思義や
東京都目黒区鷹番3-3-10 第5エスペランス102
03-3792-8618
20:00~25:00ごろまで
火休

※1 シグナトリー:スコッチの世界にはボトラーズ(瓶詰業者)というものがあります。蒸留所(=オフィシャル)から樽を買い、独自に瓶詰めしてスコッチを販売します。オフィシャルにはない独自の風味付け(たとえばシェリー樽で寝かすなど)をしたり、独自の熟成年数にしたりすることで、スコッチのバリエーションが広がります。シグナトリー・ビンテージ・スコッチ・ウイスキー社はそんな瓶詰業者の内のひとつです。

※2 グラン・マルニエ:マルニエ・ラポストル社(フランス)のオレンジ・リキュール(オレンジ・キュラソー)。

※3 マール:marc。ワイン用にしぼったブドウのかすを蒸留して造る、フランスの蒸留酒です。

ブランデーは果実酒から造る蒸留酒の総称。多くの場合、単にブランデーといえば、ワインの蒸留酒のことを指します。コニャック、アルマニャックは原産地呼称統制法(AOC)に則った、それぞれの地域で造られたブランデー。

マールもブランデーの一種です。ただ、原料がちょっと異なります。ワイン醸造後にできるブドウの残りかすを蒸留します。グラッパ(イタリア)もそうですね。こうしたブランデーはポマース・ブランデーとも呼ばれます。最近はあまり言いませんが、日本では”粕取りブランデー”と呼ばれることもあります。

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